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北の国スーサリアにも、夏が始まろうとしていた。
おだやかな朝の風が、はしゃぎまわる小鳥たちの鳴き声をゆりかごのように運ぶ。
ところは首都。
海辺に面したスーサリア王宮。
その東の塔、王子の間に、今、朝食がとどけられた。
「おはようございます、王子様のご朝食です」
白シャツに黒ベストの男性スタッフが一人、銀色のワゴンを押して、王子の私室に入ってきた。
室内には王子の秘書がいた。
第一秘書メリル、扉の電子ロックを解除した彼女は、立ったままスタッフを窓辺にいざなった。
「テーブルにならべください」
「わかりました。タクヤ王子、まだお目覚めではないですか?」
「そうね」
「早くお目覚めになられるといいですね。私も願いを込めて運ばせてもらっています」
それは初対面同士のありふれた会話。
しかしメリルはその男が部屋に一歩入った瞬間から、言葉にできない違和感を感じていた。
かくしきれない鋭い雰囲気。
おそらく、それは、むこうも同じ。
「今日は、なにかしら?」
メリルはわざと明るくふるまう。
「いつものご朝食に、野いちごのタルトが添えられています。初夏の香りでございます」
「どれどれ……まあ、おいしそう!」
料理は、確かにいつも通り。しかしメリルは、テーブルならべられた食器を見て、明らかな異変に気がついた。あるべき並べ方になっていない。スープを手前に置いた一般的な並べ方。しかし王子は、先にパンをかじって自身の体調を確認される。パン皿を手前に置くのは関係者なら知っているはず。
警戒しておいてよかった……
「ちょっとここ、ソースがはみ出しているわね」
メリルが指で皿の横をぬぐって、その指を口に持っていった。ソースをなめつつ、指先から短い楊子のようなカートリッジを口の中に入れ、あわせて、中指の指輪を舌でつんと押して起動させた。
「さすが、美味しいわ」
メリルはほがらかな態度のまま男に質問した。
「あなたは、見かけない方ね」
「はい、今日から運搬を担当します給仕科のフレディと申します、よろしくお願いいたします」
「はじめまして、フレディ。知っていると思いますが、私は第一秘書のメリル。よろしくお願いします」
新人スタッフにも丁寧に頭を下げたメリル。彼女が、テーブルのそばを立ち去ろうとした瞬間、男が背後から襲ってきた。
メリルの右手を、右横からつかんで、勢いに任せて前に走り、つかんだ腕の反動を利用して、次は逆に左手をとって、後ろに回ってねじりあげた。
「おまえの計画を話せ」
本性を現した低い声。
しかしメリルの態度はほがらかなまま。
「私はべつにあなたに語ることはなにもないわ」
「折られないとわからないのか」
男が腕をねじ上げようとすると、メリルは微笑んだまま、口から細いものをプッと吹き出した。
毒針が、男の顔に刺さり、紫色の液体が染み出る。
男はあわててメリルから離れ、目の下に刺さった針を引き抜き捨てた。
「おまえ、どうしてこんなものを」
「ソースの味見がてら、しのばせていただいたわ。でも、顔に刺したのは初めて。毒が脳に回らなければいいけれど」
「よけいなことしやがる」
毒の効果は、すぐには現れなかった。
男は警戒しつつ身構え、次の瞬間には、力任せにメリルに襲いかかった。
メリルも女性としては身長がある方だったが、男の鍛え上げられた腕力にはかなわない。
メリルが男のパンチや蹴りを、ギリギリかわしながらも、力負けして首を取られかけたところで、メリルは指輪をはめた指を男の二の腕にスーツとはわせた。
男は「いてっ」と叫び、あわてて距離をとった。
「おまえ、なにしやがった」
「筋肉が裂けただけです」
「はあ?」
「いわゆる肉離れと同じ。動けば裂け目が広がり内出血で悪化するわ」
「そんなことできるわけないんだが」
「じゃあ、もっと試してみる?」
メリルがしなやかな動きで男の左手を素早くなでた。
男は「ふざけるな」と左手で、メリルの腕をつかみかえそうとした。
しかし男が力を入れた瞬間、腕が破裂したかのような痛みが走った。
男はひざまづき、怒りで目を輝かせた。
「肉の裂け目? 痛いだけだ。筋肉は動く。気にしなければどうってこはない。力ずくでいかせてもらうぜ」
「あなた、誰よ。名乗りなさい」
「フレディだって言っただろ」
「連邦のスパイね」
「雇われただけだ。連邦のデブやろうと一緒にするな」
「愛国心があなたの支柱じゃないの?」
「そんなものは関係ねえ」
左手をかばいながら、右手でつかもうとしてくる男の、その右腕にメリルは指輪を走らせた。
男は声にならない悲鳴を上げて痛みをこらえる。
「これはどういうことだ。仕事だからこそ、敵の情報は完璧に調べ上げるべきなのに、こんな技は報告になかった」
「そりゃあそうでしょ。我が国の秘技よ。ベルベスの指輪。知ったものは、必ず死ぬ」
「さあ、それはどうだか。オレが拡散してやる。見くびってもらったら困るぜ」
「あなた、有名なスパイなの?」
「本当のスパイは有名になんてならねえよ。死なずに仕事をかさねるだけだ」
「たしかに。まあ、勇気だけは、ほめてあげる」
「おまえはその小技だけで勝てると? 王宮のお嬢さんは脳みそが腐ってるな。くせえぞ、おまえ」
「言うわね。そんな身体でどうやって戦うというの? というか、たすかるつもりなの?」
「簡単だ」
男が覚悟を決めて身構え、高速の回し蹴りでメリルの足をたたいた。
つま先をひっかけ、メリルに絡みつこうとする。
指先がとどかないところであればヘンなことをされる心配はない。
そのスピードは確かに常人のレベルではない。
しかしメリルの指が自由である限り、メリルの神秘的な攻撃はとまらない。
はがいじめにしようとしてきた男の身体を、腕を振ってなでていく。
腕、肩、背面、そして、ほほ。
男は痛みで叫ぼうとしたが、もう顎の筋肉まで動かせなくなっていた。
男はたまらずメリルから離れようとした。
メリルが走り込んで腹部を蹴り上げた。
男の腹には防具が仕込んであったが、それでも顔をゆがめて咳き込んだ。
うずくまる男に、メリルは「スーサリアのために」と祈りを口にした。
おだやかで、愛のこもった言葉。
そして指を、男の頭頂部にあて、スッとなでた。
脳が内側でさけた。
男は意識を失い、死んだ。
転がる男の死体を前にして、メリルは悟った。
王子の間に刺客が来る。
こちらの動きが、欲深い連邦の組織に悟られたのだろう。
もう、選択肢は一つしかない。
メリルは男の死体を窓から投げ落とした。
王宮の伝統的なやりかた。
あとで庭師が処理をする。
ベッドには、点滴をつけたまま眠り続ける王子がいた。
メリルは、タクヤ王子を目覚めさせる薬剤のアンプルをとりだし、封を切って注射器に吸わせた。その注射器の針を、点滴パックに刺し、薬剤を注入した。
「目覚めてください、タクヤ様。あなたの恵み多き時代が、今日、すこやかに始まりますように」