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「え。今、なんて言いました?」
外ではミンミンゼミが鳴いている。
教室は寒いほど涼しかったのに、昨日からエアコンの調子が悪い職員室は、昨日の台風の影響を受けて、むせ返るほどの暑さだった。
「だから!」
『大曲花火大会』と書かれた団扇から生まれた風が、50代の学年主任の首元を通ってこちらに流れると、油っぽい饐えた臭いがした。
「二学期から、当分の間、美術部の顧問お願いしますよって言いました!」
今年からこの明宝学園に赴任してきた久次誠(ひさつぐ まこと)は、首を傾げながら自分を指さした。
「えっと。私、一応、合唱部の顧問なんですけ――」
「知ってますよ。だから兼務ってことで」
学年主任の佐藤はこちらを少し馬鹿にするように言った。
「美術部顧問の翠先生、おめでただって言ったでしょう。聞いてませんでしたか?」
「そ、それは、朝礼で聞きましたけど……」
「ちょっとね。容態があまりよくないから、夏休みに入ってすぐ入院することになったんですよ」
「……………」
久次は気づかれないようにため息をついた。
佐藤が30代の美人教師である翠を気に入っているのは、そういうことに疎い久次から見てもわかった。
その彼女が年甲斐もなく、そして教師にあるまじく、“授かり婚”を発表したのは突然だった。
もちろん自分だって結婚していて、もうすぐ成人する娘までいるくせに、佐藤は目に見えて朝から不機嫌だった。
「いいじゃないですか。絵が描けないわけじゃないでしょう。アンパンマンくらい描けませんか?」
「……そんなこと言ったら、誰だって描けるじゃないですか」
「それに、クジ先生はどこに行っても人気でしょ?」
「…………」
いつも自信無さげで、口が達者な高校生たちに負けてばかりの自分のことを、生徒たちが裏でクジと呼んでいるのは知っていた。
『挫ける』のクジ、あるいは『挫けるな!(笑)』のクジだ。
―――自分だって人のこと言えないくせに。サトシめ。
佐藤高端(さとうたかはし)は、どちらが苗字かわからない響きから、タカハシサトシと裏で呼ばれていた。
サトウがサトシになった経緯はわからないが、なんとなくサトウよりもタカハシよりも似合う。
クジは目を細めて、サトシを睨んだ。
「それじゃ、頼みましたよ。休み明け、外部から指導者を探しますから、それまでね。生徒には今日の部活でそれとなく言っといてください」
「でも……」
「いいですから。適当で」
そう言うと佐藤は視線をノートパソコンに戻し、夏休みの図書館の開放カレンダーを作成し始めた。
「――――」
何とはなしに、隣に座っている同期の男を眺める。
大橋雄一郎(おおはしゆういちろう)。久次と同じ26歳。柔道部の顧問だ。
こんな時、彼だったら、
「柔道部は来年こそ全国を狙って頑張っているんです!土曜日も練習試合で忙しいですし、水曜日には外部コーチも来るので、無理です!」
と突っぱねられるだろうに。
―――合唱部だって、頑張ってるのにな。
自分のことを間違ってもクジなんて呼ばない、気の良い生徒たちの顔を思い浮かべる。
―――ま、いっか。パート練習の合間にちょっと覗けば。どうせみんな静かに絵を描いてるか、携帯を弄っているかどちらかだろうし。
久次はため息をつきながら立ち上がった。
夏休みが間近にせまり、どこか浮き足だった生徒たちで騒々しい廊下を歩く。
すれ違う女子生徒が手を振ってくる。
それを適当にあしらいながら、自嘲気味に笑う。
悩むなんて、自意識過剰もいいところだ。
彼らは「絵を描く場所」が欲しいのであって「絵を描く時間」を確保したいのであって「顧問」や「指導」を求めているのではない。
夏休みなんて毎日来る生徒の方が少ないのだろうし。
その中で「暇つぶし」以外の理由で来ているものなんてほんの一握り。
そしてその少数派の生徒達は、とっくに外部に指導者がいる。
自分は部活が始まる前に美術室のエアコンを入れて、時間が来たらエアコンを切ればいいだけだ。
それなら二学期の準備をしながらでも、合唱部の練習の合間にでもいくらでもできる。
専門教科は古文であるため、美術室にはとんと縁がない。
この学校に何年いるかはわからないが、こんな機会でもなければ、この教室に足を踏み入れることさえなかったのだと思うと、不思議な感じだ。
【美術室】
その文字を見つめ、久次はもう一度ため息をつくと、迷いを消し去るように大きく息を吸い込み、扉を開けた。
肺の奥まで油絵の具の香りが入ってきて、軽く眩暈を覚えた。