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姿が見えないミンミンゼミが一匹鳴きだすと、これまた姿の見えないアブラゼミが応戦する。
いつの間にかそれは複数になって久次の鼓膜から脳へ入り込んでくる。
「あっつ……」
自分の声が聞こえないほどの騒音に顔をしかめながら、久次は目の前の雑木林を睨んだ。
「こんなところに本当に絵画教室なんてあるのかな……」
木漏れ日が輝く道を、ざくざくと進んでいく。
山の麓ということもあって、葉の間から漏れる真夏の容赦ない太陽と、街中とは違う湿っぽい涼しさが混在する。
確かに誰かが通っている跡はある。
誰かが通れるように手入れしている跡もある。
しかしーーー。
「うッ」
見えない蜘蛛の巣が顔にかかり、久次は顔をしかめながら、あてずっぽうで頭や頬にくっついている思われる糸を指で絡め取った。
「……なんで、俺がこんな目に……」
都会生まれで都会育ちの久次は、もともと五感に強制される”自然”が嫌いだ。
これでもかと視界を覆う緑色も嫌いだし、土の匂いも木の芽の香りも、虫の鳴き声も小鳥の囀ずりも、下に何が埋まっているかわからない枯れ葉の柔らかい感触も、全てが嫌いだった。
こんなところ、週に二度も通わなければいけないかと思うと……。
―――地獄だ。
◆◆◆◆◆
臨時顧問を押し付けられたあの日、仕方なく開いた美術部の扉の前で待っていたのは、部長の海老沢だった。
「久次先生。よろしくお願いします」
彼女はニコリとも笑うことなく、挑戦的な目でこちらを見つめた。
3年5組、|海老沢《えびさわ》|千香《ちか》。
全校朝礼で、高校生美術コンクールなどで頻繁に受賞されている彼女の顔と名前はよく知っていた。
賞状をもらうときのりりしい顔とは別に、顧問である翠先生と舞台脇で話している笑顔を見たときには、こんな顔をして笑う生徒なのだと、微笑ましく思ったものだったが。
そんな彼女は、どんなに控えめに言っても、確かに今、久次を睨んでいた。
「あ、えっと。新しく顧問になった久次です。よろしくお願い―――」
「翠先生から、美術部のことはどのように聞いてますか?」
海老沢は細い目を精いっぱい見開いて久次を見つめた。
「あ、えっと」
情けないことに久次は同じ言葉を繰り返した。
「ごめん。さっき美術部の顧問の話を初めて聞いて、翠先生からはまだ何も聞いてないんだ……」
「そんな……」
海老沢は俯いた。
久次はそこで初めて、彼女が自分に怒っているのではなく、何の説明も準備もなく、美術部を投げ出し入院してしまった翠に失望しているのだということが分かった。
「あ、翠先生は、急遽入院することになって大変だと思うけど、落ち着いたら、ゆっくり会いに行って、それで美術部の方針とかメニューとか、そういうのも聞いてくるから安心し―――」
久次が言い終わる前に彼女はぷいっと踵を返し、つかつかと美術室の中に入っていってしまった。
「――――」
やり場の無くなった言葉と薄ら笑いを飲み込むと、久次はその小さな後ろ姿に続いておずおずと美術室の中に足を踏み入れた。
教室の中央に白い台が置かれていて、それを囲むようにイーゼルが並んでいる。
「おはようございます……」
背中を向けていた男子生徒が少しだけ振り返って控えめに頭を下げる。
「あ、おはよう!」
時刻はすでに午後だが、「おはようございます」が部活が始まるときの共通の挨拶であるというのは、合唱部と同じだ。
「ーー今から、何するのかな?」
小さな声で聞いてみると、彼は少し困ったように振り返り、より一層小さな声で返した。
「デッサンです」
「デッサン?」
「水曜日は」
教室の中央にいた海老沢が久次を振り返って言った。
「水曜日はデッサンの日なんです。厳密に言えば、水曜日と、金曜日は」
「――――あ、そうなんだね」
久次は彼に寄せていた身を起こすと、中央に歩を進めた。
リンゴとレモンを持った彼女がこちらを見上げる。
「モチーフは先生が準備してください」
「も、モチーフ?」
久次は視線を落とした。
おそらく彼女が持っているリンゴとレモンが今日の”モチーフ”なのだろう。
「わかった」頷く。
「スケッチブックとユニ、ハイユニ、練りゴムなどは個人で持っているので準備しなくても大丈夫です」
「―――わかった」
ユニ、ハイユニ、練りゴムの意味が分からなかったが、「個人で持っているから準備しなくてもいい」ということは分かった。
久次は目を細めた。
「ティッシュ、ガーゼ、フィキサチーフは、都度、先生の方で準備お願いします」
「りょ……了解……」
いよいよわからなくなってきた。
抑揚のない海老沢の高圧的な言い方にくらくらしながら、久次は慌てて手の甲に“フィキサ……?”と書いた。
明らかに自分を歓迎していない女子高生相手に、聞き直す勇気はない。
「先生……」
見透かしたように海老沢がこちらを睨む。
「美術のご経験は?」
「――――」
久次は目を細めた。
「ちゅ、中学校の授業が最終学歴になります……」
「高校では美術の授業は受けなかったんですか?」
「うちの学校、音楽科だったので……」
海老沢が息を吸い込みながら黙って腕を組む。
「――――デッサンのご経験は?」
「ありません」
「油絵のご経験は?」
「ありません……」
海老沢は吸い込んだ息を今度は盛大に吐き出した。
「ーー美術部の顧問が、こんなことでは困ります!」
◆◆◆◆◆
彼女が言うことは至極当然で、自分は美術部の顧問として最低限の指導もできないばかりか、材料の名前も知らないんじゃ、彼女たちが才を振るうための環境さえ整えてあげることができない。
美術部顧問の兼務は自分にとっては災難だが、美術部のメンバーにとってその損失は計り知れない。
特に海老沢たち三年生にとっては美大進学もかかっている。
身に降りかかった火の粉とは言え、彼女たちを犠牲にすることはできない。
森の中をひたすら進む。
「こんな車も入れないような道の先に……」
額の汗を拭きながら進む。
「アトリエなんて……」
下ろしたてのスニーカーがすでに枯葉と土で茶色く濁っている。
軽い傾斜を上り切ると――――。
「………あった」
久次が通う坪沼高校から電車で二駅離れた山の麓に、絵画教室“森のアトリエ”はあった。
西洋の洋館のような造りの家をぐるっと見回す。
なんでも、数十年前にかの有名な絵画家、加納義孝(かのうよしたか)が、余生を過ごしたとされる別荘で、彼の死後、熱狂的なファンが買い取ったそうだ。
そして数年前に彼の教え子であった谷原道明(たにはらみちあき)が、そのアトリエを借りて絵画教室を始めたのだという。
大型の曇りガラスの掃き出し窓が並ぶ。
一部開けられていて、中が見えた。
油とシンナーの匂い。
板張りの床にいくつものイーゼルが置かれている。
「―――おお……」
イーゼルの上には描きかけのキャンパスが置かれていた。
都会で育ち、テレビゲームやパソコンで育ったような久次は、森の中で虫の声に耳を澄ませ、通り過ぎる雲のせいで照ったり曇ったりするキャンパスを見つめながら、背筋を伸ばして筆を持つ自分なんて、想像できなかった。
「――――久次さん……ですか?」
突然声をかけられ、久次は驚いて振り返った。
「驚かせてしまいすみません」
どこには50代くらいの背の高い紳士が立っていた。
「あ、もしかして谷原先生ですか?」
「はい、そうです」
紳士は柔らかに微笑みながら、8月の猛暑の中にいるとは思えない涼しい顔で頷いた。
「少々驚きました。電話の感じがとても落ち着いておられたので、もっと年上かと。もしかしたら僕と同世代かな、なんて予想してました。こんなに若い好青年だとは―――」
「いえいえ、そんな……」
久次は恐縮しながら名刺を取り出した。
「お電話した久次と申します。よろしくお願いします」
彼は両手を差し出し、「頂戴します」と丁寧に言うと、名刺を指で挟んだ。
「――坪沼(つぼぬま)高校……?」
「あ、はい。古文を教えています。音楽は多少経験があるのですが、なにせ美術は初めてなもので」
電話であらかた経緯は説明していたが、なぜか谷原は驚いたように名刺を見つめている。
「―――あの?」
覗き込むと、彼はふっと笑って再びこちらを品のある微笑で見つめた。
「暑かったでしょう。中で何か冷たいものでも飲みながらお話ししましょう」