コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
そのような昌幸の顔色を無からしめる知らせが届いたのは間もなくのことだった。
「大坂方が敗れた・・・・。それもわずか半日の戦で・・・・」
呆然自失となった。これ程の衝撃を受けたのは、昌幸の五十四年の人生において初めてのことである。
「馬鹿な・・・・。信じられぬ。これは何かの間違いに決まっておる」
顔面蒼白となって呟く昌幸を見て、信繁が語り掛けてきた。
「ははあ。やはり徳川が勝ちましたか」
さもあろうと言わんばかりの信繁の表情である。
昌幸は信じられぬような思いで信繁の白い顔を凝視した。
「やはりだと?やはりとはどういうことだ」
「これは異なことを。私は犬伏で最初に申したではありませんか。この戦、徳川が勝つと」
「むう・・・・」
昌幸は言葉を失った。
「しかし、わずか半日で勝敗が決するとは流石に私も予想出来ませんでしたな。流石は海道一の弓取りといったところですか。あの戦下手な中納言殿は真に家康の血を引いておるのやら・・・・」
さも不思議そうに言う信繁を見て、昌幸は心底失望した。
(やはり、こ奴の頭はまともではない・・・・)
確かに、先の合戦の働きを見る限り、武の天稟はあるのだろう。
しかし、戦とはあくまで政の一部分に過ぎない。戦とは勝利し、それによって政治的な効果を得られねば何の意味も無いのだが、そのような事柄は信繁の思考にはほんのわずかも存在しないらしい。
信繁にとって戦とは己の武勇を振るって敵を殺戮する場にすぎず、狩猟を楽しむのと何ら代わりが無いのではないか。
(所詮は侍大将程度の器か)
「して、どのような経緯で決着が着いたのでしょう」
苦り切った表情の昌幸とは全く対照的に、興味津々といった態で信繁は問うた。
開戦当初は石田方西軍が優勢であった。西軍が戦場となった関ケ原の大半の高所を抑え、徳川方の東軍を包囲する鶴翼の陣を引くことが出来たからである。
だが、毛利が動かなかった。
西軍の総大将の座に就いた毛利中納言輝元は秀頼を擁し、大坂城にいる。
代わって毛利軍一万五千の指揮を執るのは、輝元の養子である毛利宰相秀元であった。しかし、分家の吉川侍従広家が秀元の動きを封じた。
かつて毛利両川の一方として天下に英名を轟かせた吉川元春の後継者である広家は、実は単独で家康と停戦の交渉を進めていたのである。
関ケ原の合戦の勝敗を決定づけたのは、広家と同じ毛利両川の後継者である小早川金吾中納言秀秋であった。
秀秋は毛利家の血筋ではない。太閤秀吉の正妻北政所の甥である。が、天下隋一の賢人と称えられた小早川隆景の養子となって小早川家を継いだ。
秀秋は毛利の分家として当然西軍に組み込まれたが、内心は不満であった。
かつて太閤秀吉の不興を買い、筑前三十万石から越前十五万石に転封される憂き目に合ったが、それは石田三成の讒言によるものだという風説を信じていたし、その後筑前の領主に復帰できたのは家康の力があったからである。
そこに家康からの使者がやって来て東軍への寝返りを勧めてきたので、秀秋はほとんど迷うことなく快諾した。
しかし、松尾山の頂に布陣した秀秋は、いざ開戦すると、懊悩した。
眼の前で繰り広げられる古今未曾有の大軍同士の大戦の決着が、己の決断にかかっているという現実。それは未だ十九歳でしかないこの若者の精神の許容量をはるかに超えていたのである。
結果、秀秋は完全に硬直し、軍の指揮どころではなくなった。
東軍が西軍に押され、敗色が濃くなってきた。
「おのれ、小早川の小僧めが!」
桃配山の家康が顔面を朱に染めあげ怒号した。
日和見を決め込んでいるようにしか見えない秀秋には当然腹が立った。しかしそれ以上に、千軍万場の古豪たる己が、孫のような年齢の若者の裏切りにすがるしかないこの状況そのものがこのうえない屈辱だったのである。
「松尾山に鉄砲を撃ちかけい」
家康は鉄砲大将に命じた。裏切りの催促というよりも、己の憤怒を思い知らさねば気が済まぬ故と言った方が正確だっただろう。
結果、それが幸いした。
徳川が松尾山に発砲したことを知ると秀秋は驚き、それまでの緊張と迷いが嘘のように霧消した。
「今から山を下りるぞ。業病の身を戦場にさらす大谷刑部を討ち取れい」
小早川軍一万五千の兵が怒涛の勢いで松尾山を駆け下り、大谷吉継の陣に襲い掛かった。さらに西軍に所属していた脇坂安治、朽木元網、小川裕忠、赤座直保が呼応し、大谷軍の側面を突いた。
大谷軍が壊滅したことを知った西軍は動揺し、ついには潰走を始めた・・・・。
「ほう、毛利両川に調略をかけるとは」
関ケ原で行われた戦の顛末を知った信繁が感心したように言った。
「家康は用兵巧者ではあるが、調略の類は苦手との評判は間違いだったようですな。見事というしかありますまい」
「見事なものか」
昌幸は言下に否定した。
「調略が不十分であったが故、土壇場で小早川の小僧如きに振り回されたのだ。挙句の果てには鉄砲を撃ちかけ恫喝するとは、無様にも程がある。それで小早川が機嫌をそこねていたら敗れていたであろうが。わしや太閤殿下ならもっと上手くやっておったわ」
昌幸は憤然として言い放った。
(所詮家康は調略や謀略においては二流の男に過ぎん)
だがその二流の男が古今未曾有の大戦をわずか一日にして制してしまったのだ。
人智を超えた天運、時の勢いといったものが家康に味方した結果としか思えない。
かつて本能寺の変の直後、中国大返しを決行し、瞬く間に明智光秀を滅ぼした秀吉と同様のものだろう。
(あの男が天下を獲るのか)
眩暈《めまい》が昌幸を襲った。
「して、これからどうなさるおつもりか」
「どうとは・・・・?」
「無論、徳川に降伏して城を明け渡すか、否か」
「否か、だと?」
昌幸は力なく笑った。
「拒否すれば、家康めは前回以上の大軍をもって上田城を取り囲むであろう。勝ち目など万に一つもあるものか」
「そうですな。勝ち目などないでしょう。そう考えるのが当然です」
信繁は凛として昌幸の目を見ながら言った。
「しかし、父上はこのまま徳川に屈してよいのですか?あれ程嫌悪し、見下していた家康に命乞いをしたいのですか?」
「・・・・」
「私は御免こうむりたい。それに命乞いをしたところで許されるはずも無いでしょう」
信繁が白皙の顔を紅潮させながら言った。常にない感情的な物言いである。
「どうせ我らに生き残る術などありますまい。ならば城に籠ってもう一戦といこうではありませんか。天下を制した徳川の圧倒的大軍を相手に孤軍にて立ち向かう。これこそが私が望んでいた真の面白き戦です。例え敗れて死んでも本望。武士の本懐、これに勝るものはありますまい」
信繁が双眸を爛《らん》として輝かせながら言った。その双眸に宿る禍々しい光を見て、昌幸は己の子の魂を焦がす狂気の炎の激しさを思い知らされた。
(わしが否と言えば、こ奴わしを斬るかな?)
あるいはそうかも知れない。だが昌幸は信繁の狂気の炎に身を投じる気力はもはや無い。絶望に心身を打ちのめされていた。
「玉砕覚悟の戦など、わしの流儀ではない。潔く開城いたそう」
斬りたくば斬れと言わんばかりに昌幸は投げやりに言った。
はたして信繁の目は細められ、明確に殺気が噴出した。
しかし、それも一瞬のことで、やがて信繁は父を嘲るような笑みを浮かべた。
「まあ、仕方ありませんな。父上に代わって私では、家臣や兵どもは従わぬでしょうから」
「・・・・」
「我ら父子揃って上田城にこの首をさらすことになりますか。まあ、それも一興」
己の白いうなじをなでながら信繁は他人事のように言った。
「そうと決まった訳ではあるまい」
「とは?」
「何かと恰好をつけたがる家康のことよ。己の寛容さを世に示す為にあえてわしらを助命するやも知れん」
「はっはっは」
信繁は声を上げて笑った。
「それは流石に家康を侮りすぎでしょう」
「そうかも知れんな」
昌幸は力なく答えた。だが心の中では、
(このわしが死ぬはずがない)
と絶叫していた。徳川の大軍を寡兵にて二度も破った天下一の用兵巧者たる己が敗者としてみじめな死を迎え、愚鈍な家康如きが天下を制するなどということが、あり得るのだろうか。あってはならぬことである。
(そんなことが許されていいはずがない)
この昌幸の本音を世の人が聞けば、その度を過ぎた過信と傲岸に呆れ、失笑するだろう。
だが昌幸は己の知略、用兵の才は天の賜物だと本気で信じていた。
(わしは未だ、家康と直接雌雄を決っしておらぬ。天はいずれ必ずその時を与えてくれるはずだ)
もはや信仰と言って良い昌幸の思いであった。
「真田安房めは当家に対して二度までも弓を引きおった。鋸引きにしても飽き足りぬ」
大坂城に入り、戦後処理に着手した家康は、憤怒を露わにして言った。当然だろう。
真田に対して慈悲をかける理由などあるはずがない
「この度私が頂くご加増は全て返上仕ります。何卒我が父、我が弟の助命をお聞き下さりたく、伏して願い奉ります」
信幸が必死に懇願しても家康は首を縦には振らなかった。
しかし信幸の岳父、本田中務大輔忠勝までもが助命嘆願を申し出て、あろうことか
「我が婿の願いを聞き届けて下されねば、それがし殿と一戦交える覚悟にござる」
とまで言い出した。
本田忠勝は、「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本田平八」と狂歌に歌われた徳川の武威の象徴と目される雄将である。
その本田忠勝にこうまで言われては、家康も折れるしかない。
渋々、昌幸と信繁に高野山蟄居を命じた。