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慶長五年十二月十三日、昌幸、信繁親子は上田城を離れ、高野山に向かうことになった。
昌幸の妻、山手殿は病弱の為、信之に預けていくが、信繁は妻子を伴ってゆく。
信繁の妻は大谷吉継の娘である。関ケ原で非業の死を遂げた父については多くを語らず、到底良き父、良き夫とは言えない信繁にあくまで付き従おうとする嫁を見て、昌幸は、
(せがれ共は女房に恵まれておるわ・・・・)
と思った。
上田城合戦前夜、嫡男信幸と決別した昌幸は、
(沼田城を奪っておくか)
と考えた。この点、昌幸は真に意地が悪い。
沼田城を奪うことは戦略的な意味はもちろんあるが、それ以上に父よりも家康を選んだ信幸に面当てをしなければ気が済まなかったのである。
沼田城に赴き、孫に会いたい故、開門されたしと使者に告げさせた。
すると信幸の妻である小松殿が数名の侍女を引き連れて現れた。いずれも白い鉢巻を締め、長刀を手にしている。
「これ、孫に会いに来た舅に対して、その出迎えは何じゃ」
昌幸が呆れながら言うと、小松殿がきっとまなじりを決し、
「我が夫、伊豆守が留守の間は、何人たりとも城門を開けることは出来ませぬ。弓矢にかけて押し通ると言うならばご存分に。我が命をかけて阻みまする」
と、凛然として言い放った。
その姿は、流石に五十数度の合戦場を駆け巡りながらかすり傷一つ負ったことがないと言う神韻を帯びた武人、本田忠勝の血を引くだけはあると昌幸は感嘆せずにはいられなかった。
昌幸は見送りに来ていた信之の彫りの深い精悍な顔を見ながら微笑した。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない」
信之は沼田三万石に上田三万八千石、さらに加増三万石にて、九万八千石を与えられた。
信之は家康に感謝し、昌幸の幸の字をはばかって信之と改名している。
「父上、いずれ赦免もかないましょう。決して不逞な野心などは抱かぬように」
信之は力を込めて言った。
無論、言ったところで無駄なのは知れているが、言わなければならぬと言った心境だろう。
昌幸もあえて逆らわなかった。
「分かっておる。我妻のこと、よろしく頼むぞ」
と神妙な顔で言った。
昌幸、信繁一行が高野山に入山したのは、年の暮れだった。しばらくの住まいは蓮華定院である。
年が明け、院主の世話で山麓の九度山村の屋敷に転居した。
昌幸親子の身柄を預かるのは紀州の国主である浅野家である。
浅野家の重臣達は徳川の大軍を二度も破った昌幸の武勇に敬意を抱き、物心両面で何くれと世話を焼いてくれた。
その為、九度山での暮らしは決して悪いものではない。昌幸はこのころから、
「一翁閑雪《いちおうかんせつ》」
という法名を名乗り、隠遁の意思を示した。信繁は、
「好白斎」
である。
無論、それは徳川家に対する擬態に過ぎない。
仏道修行者のように髪を剃ったりお経を読むような真似は一切しない。
俗世への執着は無くなるどころか、日を追うごとに濃厚になって行くようである。
「天下は再び必ず乱れる」
昌幸はそう確信している。
関ケ原の論功行賞が終われば、豊臣家の所領はわずか六十五万石になっていた。
豊臣家の当主である秀頼は未だ幼子でしかない。
当然、家康はこの幼君を飼い殺しの状態に置くだろう。かつて秀頼の父である秀吉が主君であった織田信長の孫である三法師こと織田秀信をそうしたように。
因果は巡る。天下の人々はそう思った。
しかし家康は武家の棟梁である征夷大将軍に就任すると、生前の秀吉との約束を守り、自身の孫である千姫を秀頼に嫁がせ、豊臣家との関係を強化する姿勢を示した。
家康は天下人として日の本全土に君臨する道は選ばず、東国は徳川家が支配し、西国は豊臣家が支配するという分割統治を構想しているらしい。
(やはりあの男は度し難い愚か者よ)
昌幸は怒りながら吐き捨てた。
何故家康はこのような統治を選んだのか。
まだまだ西国では豊臣家の影響力が強いということも当然ある。が、それ以上に武士に儒教的な教養を身に着けさせようと考えている家康からすれば、幼い主君を放逐して己が天下人となるわけにはいかなかったのだろう。
そんなことをすれば、己の名は唐土における新の王莽や魏の曹操に並ぶ極悪人として後の世まで罵倒される存在になる。
家康は何よりもそれを恐れたのだろう。
(つまり、あの男にとっては、天下のことよりも己一人の名がどのように史書に残されるかが大事なのだ)
昌幸は憎しみを込めて断定した。
(今は亡き信長公や太閤殿下は、天下に静謐をもたらす為ならば、己の悪名が千載の後まで残っても構わぬという大胆力、覚悟があった。それに比べて家康めの小ささはどうだ)
「天下は乱れますかな」
信繁が問うた。
「乱れるに決まっておる」
昌幸は力を込めて言った。
「家康めが考える分割統治など誰も納得せぬわい。徳川譜代の家臣どもや、関ケ原で東軍についた藤堂や黒田は何故、豊臣家と天下を分け合うのかと不満を持つに決まっておるわ。また豊臣家の方は、いずれは盛り返して再び天下を己の手で牛耳ることが出来るのではと野心を持つであろう。やがてお互いに火が燃え上がり、戦にて決着をつけねばならなくなるに決まっておる」
「成程・・・・」
信繁はうなづきつつ、笑った。獰猛な笑みであった。
「その日が来るまで、わしらは牙を磨いておくとしよう」
信繁を見て満足そうな表情を浮かべながら昌幸は言った。
昌幸、信繁親子の九度山での暮らしは一見、穏やかで淡々としている。少なくとも監視役である浅野家にはそう思えた。
屋敷の裏に畑を持ち、自ら鍬を持って野菜を作り、また後世「真田ひも」として名高い伸びにくく丈夫な打ちひもを手作りしていた。
この真田ひもは堺の商人を通じて販売され、大変な人気を博した。
「刀の下げ緒はもはや真田ひもでなければなりませんな。あまり大きな声では言えませぬが、真田の武勇にあやかりたく・・・・」
「やはり安房守殿、いや一翁閑雪殿は天下一の知恵者にござるな。職人や商人としてもこれ程優れた才覚をお持ちとは」
浅野家の重臣達に口々に称賛され、穏やかな笑みで応じる昌幸は、誰から見ても天下への野心を捨て去った好々爺にしか見えなかっただろう。
しかし、内心は猛り、焦っていた。
(早う戦になれ。このままではわしも家康も朽ち果ててしまうぞ)
この時、慶長十六年。昌幸親子が九度山に流され、すでに十一年の月日が流れている。
六十五歳になった昌幸は日に日に衰え、床に就くことが多くなっていた。
怨敵である家康は六十九歳である。
豊臣家の人々は一刻も早く家康の寿命が尽きることを一日千秋の思いで待ち望んでいるだろう。
だが昌幸は違った。
(あ奴に畳の上で死なれてたまるか。敗者としてわしの前に引き据え、首をはねてやらねば気が済まぬ)
しかし諜者の調べによると家康は七十歳を目前にしてもなお頑健そのものであり、日々剣術の稽古や鷹狩で肉体を鍛え、その上十代の愛妾との間に子まで成したという。
「・・・・」
報告を聞き、昌幸は複雑な気分になった。
家康が当分死にそうにないのは己の悲願成就の為には喜ぶべきことかも知れない。
しかしそれ以上に、己よりも年上にも関わらず病一つかからない家康の頑健な体が妬ましくてたまらなかった。
(ひょっとしたら、わしは奴よりも先に死んでしまうのではないか)
しだいに恐怖の念が湧いてきた。
(家康めは我が世の春を謳歌し、徳川に二度打ち勝ったはずのこのわしがこのような僻地で空しく世を終えるのか・・・・)
絶望が昌幸の心を覆い、ついには病魔を呼び込んで肉体を蝕んだ。