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霜の巨人達が集い奇妙な舞を演じていた雪原から少し離れた位置にナグルファルの船団を着地した。
そして間もなくニブルヘイムの凍てついた空気を吐き気を催す瘴気で切り裂きながら死者の軍勢が進軍して来た。
「ほう、ヴァナヘイムの時に先陣を切って攻めて来たのは蒙古騎兵であったが、今回は違うらしいな」
義元が笑みを浮かべながら言った。
「風林火山の旗を掲げておるわ。やはり武田軍のようだな」
「……」
勘助と信繁はそれぞれ怒りと悲しみが混濁した複雑な表情を浮かべ、かすかに苦悶の声を漏らした。
戦国最強を誇った武田軍。風林火山の旗を仰ぐ誉れ高き武士団が見るもおぞましい死者の群れとなり果て、この極寒の地にやって来たのだ。
二人の戦国武士の胸にかつてない激情の嵐が吹き荒れていた。
(あれがかつての同胞、配下の者達のなれの果てか……。あのような腐肉を纏い、骨をさらす醜悪な姿となり、ロキとヘルの意のままに動く傀儡になってしまうとは……)
「武田軍だけではないようだな。あの軍装、唐土の軍団か?」
「あれは蜀漢の軍団だ」
常は極めて口数の少ない夏侯淵が義元に答えた。さらに夏侯淵の射手として鍛え上げられ、遂には神の域に達した眼力は蜀漢の軍勢を従える二人の将軍の姿を捉えた。
「関羽と張飛……」
無駄な肉がそぎ落とされた鋭角的で沈毅な夏侯淵の顔貌が闘志と歓喜で耀いた。
かつて後漢末期の大動乱の中華の戦場で幾度も干戈を交えた宿敵とまたこの異郷の地で戦えるのだ。
エインフェリアとしての使命を忘れて純粋に武人の魂が燃え上がるのは無理も無いことだろう。
「あーあ、やっぱり居やがったか、あいつら」
夏侯淵とは対照的に、孫堅は心底うんざりした表情である。
孫堅は暴君、董卓を討つ為に結成された連合軍の帷幕で顔を合わせたことはあるが、言葉すら交わしていない。
だがその数十年後に関羽は孫堅の次男、孫権の策略によって捕らえられ首を刎ねられ、張飛は己の部下に寝首を掻かれた。その部下も孫権に内応していたのは確実であるという。
まだ直接死者となった関羽と張飛に対峙した訳ではないが、孫堅ははっきりと予感した。
関羽と張飛は怨念の化身と化して、子の孫権と父の孫堅の区別がつかなくなっており、その憤怒と復讐の刃をエインフェリアとなった孫堅に向けようとしていることを。
霜の巨人が奇妙な舞を中断し、本来有していた強烈な排外本能を発揮し、己の領域であるニブルヘイムを犯した死者を排除すべく一斉に動き出す。
武田、蜀漢の兵で構成された死者の軍勢もゆっくりと進軍しながら陣形を整えつつあった。
「魚鱗の陣か、やはり……」
武田軍がもっとも得意とする陣形である。蜀漢の兵も問題なく合わせているようだが、当然だろう。
武田信玄と山本勘助が編み出した「戦国八陣」は、本来古代中国の軍法を導入して造られたものなのだから。
魚鱗の陣は先鋒と二の陣が鏃の形に組み、中心に大将が置かれその脇に旗本勢がいるという陣形である。
正面突破に適した陣形であり、駆動性を持ちつつも断固たる堅牢さも兼ね合わせるが為、「魚鱗」と名付けられた。
後方から奇襲を受ければひとたまりも無いという致命的な弱点を持つ陣形であるが、このニブルヘイムでの合戦ならばその可能性は無いと踏んでいるのだろう。
何故ならばニブルヘイムに生息する全ての霜の巨人が前方の雪原に集中しているのだから。
「先手は関羽と張飛が率いる蜀漢軍。第二陣は武田軍か。率いる大将は……」
ゲンドゥルの魔術によって第二陣を構成する武田軍の姿が勘助の脳裏に鮮明に描きだされる。
その武将の鎧は紅糸縅最上胴丸で、十一間六段下がり草摺りである。金具廻りは梨子地塗で桐紋の金蒔絵を施し、唐花菱紋の八双鋲を用いている。
兜は富士山の前立てを排しており、面頬を着けている為、その顔はうかがい知れない。
「これは……誰だ」
同じく武田軍を率いる将を注視していた信繁が声を発した。
「分からぬ。このような前立て、このような面頬を着けて合戦に出ていた将は我が軍にいなかったはずだ。諸角、馬場、甘利、真田、誰でもない。だが、この威容は確かに武田の将に間違いない。それははっきりと分かる。一体何者なのだろうな、勘助よ」
「……それがしにも分かりませぬ……」
勘助はそう答えるしかなかった。
だが勘助は正直ほっとした。今この瞬間にあの将の正体がはっきりとしなかったことに。それはほんの数刻先延ばしにされただけなのだろうが、勘助は幾分救われた気になったのである。
(今この時敵将があの御方だと分かってしまったら、それがしの心は砕け散り、身動き一つ出来なくなってしまうだろうからな)