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初めての逢瀬から、幾度か、夜が巡った。
さとみは、決してころんに無理を強いなかった。
ただ、静かに杯を傾け、
ころんの言葉に耳を傾け、
そして、ときおり、ふっと微笑むだけだった。
──こんなお方、初めてどす。
ころんは、自分でも気づかぬうちに、
さとみに向ける声が柔らかくなっていた。
ころん「お方さま……今宵も、ようおいでやす」
女房詞も、どこかほろりとほどけた響きになる。
さとみは、そんなころんを見つめながら、
静かに問いかけた。
「……ころん、無理して笑ってやしないか?」
その一言に、
ころんの胸が、ずきり、と痛んだ。
──誰も、そんなこと、訊いてはこなかった。
「……わっちは、花魁どす。
笑うも、泣くも、売り物にございますえ」
ころんは、そう答えるしかなかった。
けれど、その声は、どこか震えていた。
さとみは、ふっと、目を伏せ、
やがて、ぽつりと呟いた。
ころん「おまえが泣いた顔も、きっと、きれいな
んだろうな」
その言葉は、
ころんの胸の奥深くに、そっと降り積もった。
──あぁ、この人は、
わっちを、花魁ではなく、
ただの「ころん」として見てくれているのかもしれぬ。
そんな気がして、
ころんは、初めて、誰にも見せたことのない、
ほんの小さな、本当の笑みをこぼした。
夜が更け、座敷に香が焚かれるころ。
ころんは、いつものように膝を揃えていたが、
心だけは、そっとさとみに寄り添い始めていた。
──ふと、さとみが、
ころんの指先に、そっと手を重ねた。
驚きに肩を跳ねさせたころんに、
さとみは、ただ静かに言った。
ころん「怖がらなくていい。
……俺は、おまえの手を握りたいだけだ。」
何も強いられない優しさに、
ころんは、はじめて、
指先から、じんわりとした温もりを感じた。
──わっちは、
この人にだけは、
ほんの少し、心を、預けてもよいのだろうか。
そんな思いが、
青き瞳の底に、
静かに、静かに、灯り始めていた。
また夜が巡り、
さとみは変わらず、ころんの元を訪れ続けた。
ころんは、誰に対しても”花魁”であろうと努めた。
けれど、さとみだけには、
心のどこかで、つい、力を抜いてしまう自分がいた。
──怖い。
知らず、ころんは自問する。
ころん「心を許したら、
わっちは、壊れてしまうんやない
か……?」
そんな夜だった。
座敷にふたり。
香が静かに薫るなか、
ころんは、いつものように、さとみの前に膝を揃えていた。
けれど、今夜のころんは、
どこか、いつもと違った。
さとみは、ころんの顔を見つめ、そっと言った。
さとみ「ころん、疲れた顔してる。」
その言葉に、ころんは、
ふっと、仮面の笑みを解いてしまった。
ころん「……疲れてなんぞ、おへん……
わっちは、花魁どす……
何があろうと、笑うしか……」
そこまで言って、
ころんの声は、震えた。
──こぼれてしまう。
堪えきれず、
ころんは、
小さな、小さな声で、呟いた。
ころん「……こわいんや」
初めて、
誰にも言えなかった”本音”を、
ころんは漏らした。
ころん「誰かを信じたら、
信じてしまうたら……
”僕”が、自分が、何もかも、壊してしま
いそうで……」
膝の上で、小さく握り締めた手。
指先が震えている。
それを、
さとみは、そっと両手で包み込んだ。
「……怖がらなくていい。」
さとみの手は、あたたかかった。
押しつけるでも、縛るでもない、
ただ、
そっと、ただ、包み込むような温もりだった。
ころんは、
その手に縋るように、
瞼を閉じた。
──こんな優しさが、この世にあったのか。
──わっちは、
心なんて、もうどこかに捨てたつもりだったのに。
ころんの頬を、
一筋、涙が伝った。
青き瞳から零れる、
誰にも見せたことのなかった、
たったひとしずくの、
ほんとうの涙。
さとみは、その涙を拭うこともせず、
ただ、黙って寄り添っていた。
言葉は、何もいらなかった。
香の薫る夜のなかで、
ころんは、
初めて”ひとりの人間”として泣いた。
そして──
その胸の奥に、
ひとつ、小さな光が、そっと灯った。
それはまだ、
恋と呼ぶにはあまりにか細く、
けれど確かに、
ころんの心に、生まれたものだった。
あの夜から、
ころんとさとみのあいだには、
見えぬ絆の糸が、確かに結ばれた。
それは誰にも見えず、
誰にも咎められないはずだった。
けれど──
吉原という牢獄は、
ふたりの小さな光を、すぐさま嗅ぎ取る。
ころんは、
どれほど心を鎖そうとしても、
さとみの前では、もう偽ることができなかった。
夜。
静かな座敷に、香が焚かれる。
ころんは、水浅葱の衣をまとい、
淡く光る髪を揺らしながら、
さとみの膝前に、そっと身を落とす。
ころん「……お方さま。
今宵も、わっちをお選びいただき、かた
じけのうございます」
女房詞で取り繕うも、
その声は震えていた。
さとみは、ころんの髪に触れる。
ふわり、とした手つきで、
愛おしむように。
さとみ「ころん、俺は……おまえが、欲しい。」
──禁句だった。
この吉原で、
客と太夫が”情”を交わすなど、
許されぬこと。
ころんの胸に、
かつん、と冷たい鐘が鳴る。
ころん「……わっちは、花魁どす。枯れるまで咲き
続け、誰のものにも、なりもはん」
掠れる声で言いながら、
ころんは、
心のどこかで、
“なりたい”と、
たった一度だけ、願ってしまった自分に気づく。
さとみは、
そんなころんを、
悲しそうに、
けれど、優しく抱きしめた。
さとみ「……逃げよう」
その一言に、
ころんの全身が震えた。
ころん「……な、なにを、言いなはる……
逃げる、やなんて……
わっちひとり、売られてきたもんどす……
そない、わがまま、通せるはず……!」
ころんの声は涙に濡れていた。
けれど、さとみは、
きっぱりと言った。
さとみ「俺が、助ける。
ころん、おまえを、ここから連れ出す。」
──どうして、
どうして、
この人は、
そんなにも真っ直ぐに、わっちを救おうとするのやろう。
ころんの胸に、
せつないほどの痛みと、
暖かい光が、
いっしょにあふれた。
水浅葱の衣が、
涙に滲んでいく。
ころんは、
さとみの胸に顔を埋め、
小さく、小さく、囁いた。
ころん「……もし、ほんに、ほんに……
逃げられるなら──
お方さまと、どこまでも行きとうござい
ます……」
初めて、
誰にも渡さぬ”真心”を、
ころんは、
さとみに捧げた夜だった。
第四章 水鴉 完
第五章 「逃」へ続く