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さとみ「明日の夜明け、迎えに来る。」
さとみは、
ころんの細い手を、両手でぎゅっと握り締めながら、
静かにそう言った。
座敷の灯りが、二人を照らしていた。
香の甘やかな薫りも、
今夜ばかりは、胸を締めつける。
ころん「……お方さま、ほんまに……?」
ころんは、
かすれる声で問うた。
ころん「わっちは……花魁どす。
逃げれば、死罪。
お方さまも、ただでは済みまへん……」
震える指先で、
ころんは、さとみの着物の袖を、
ぎゅっと摘まんだ。
ころん「それでもええんどすか……?」
──まだ、怖い。
でも、それ以上に。
ころんは、さとみと生きたかった。
どこでもええ。
華の都でなくとも、
貧しい里でも、泥の中でも──
さとみと一緒なら。
さとみは、
迷いなど一片もない瞳で、
ころんを見つめた。
さとみ「一緒に、生きよう。」
さとみ「金で貴方を買うのは愛ではない…
それを一番分かって居られるだろう」
その言葉に、
ころんの胸は、
たまらなく熱くなった。
ころん「……わっちは、お方さまのお側に、
居とうございます」
そっと、
ころんは、自ら、
さとみの胸元に顔を寄せた。
水浅葱の衣が、さとみの衣に擦れる。
ころんの髪が、ふわりと揺れ、
夜の灯にきらめいた。
ころん「……今宵は、
お方さまのためだけに、
この身、尽くしまひょ……」
女房詞で囁くその声は、
今までのどんな夜よりも、
甘く、
切なかった。
ころんの指が、
静かに、さとみの衣を解いていく。
さとみもまた、
ころんの細い肩を、
抱き寄せる。
この夜を最後に、
すべてを捨てる。
二人とも、それを、
痛いほどにわかっていた。
だからこそ──
今だけは、
すべてを赦し合いたかった。
火照る肌が触れ合い、
ふたりの吐息が、絡みあう。
ころんの青い瞳は、
涙を滲ませながらも、
まっすぐにさとみだけを見ていた。
ころん「……好きだよ」
ころんは、
そっと、
誰にも聞こえぬほどの声で、
さとみに告げた。
心から。
この夜、初めて、
偽りなく。
さとみも、ころんを強く、強く抱きしめた。
二人は──
この夜、
かつてないほどに、
深く結ばれた。
そして。
夜明けが近づくにつれて、
運命の時が、静かに、忍び寄っていた。
空が、
わずかに白み始めていた。
吉原の裏手、
まだ灯りも落ちぬ街の片隅で、
ころんは、そっと息を殺していた。
水浅葱の衣を脱ぎ捨て、
夜の色に溶けるような、
粗末な裳を身にまとい。
──まるで、農村にいたころの、
かつての自分に戻ったみたいや。
ころんは、
自嘲気味に、微かに笑った。
それでも。
今は、心から、
あの華やかな檻を、捨てる覚悟ができていた。
手の中には、
小さな荷物。
思い出も、誇りも、
何もかも置いてきた。
ただ一つ、
“さとみと生きる”という未来だけを、
両手で抱いて。
闇の中、
細い路地を駆ける音がする。
ころんが振り向くと、
そこに──
さとみが、息を切らして駆け寄ってきた。
さとみ「ころん──!」
ころんの胸が、
ぎゅっと熱くなる。
ころん「お方さま……!」
涙が、自然に零れた。
さとみは、ころんの手を強く握る。
さとみ「行こう。
もう、誰にも、縛られない。」
ころんは、
何度も何度も頷いた。
ふたりは、
手を繋いだまま、
裏門へと走る。
ひとつ、またひとつ、
夜の帳が裂け、
朝の光が差し込んでくる。
その光は、
吉原で生きた日々のすべてを、
優しく、そして無慈悲に照らし出していた。
──逃げ切れるか。
──捕まれば、ただでは済まぬ。
ころんも、さとみも、
それを知っていた。
それでも、
一歩、また一歩と、
未来へ向かって駆けていく。
その途端吉原のどこかで、警鐘が鳴り響き、
それを合図に、数人の手練れた侍が街中を駆け出していた。
さとみ「大丈夫だ、ころん。
俺が──」
さとみの言葉が、
空気を切り裂いた。
けれど、その直後、
足音が突如として近づき、
ふたりの背後に何かが迫ってきた。
ころんは、
息を呑んだ。
その視線が、ひらりと反射する石畳にすり抜け、
たった今、駆け抜けた道の先に何かが見える。
ころん「お方さま、早く!」
一歩、また一歩、
不安定な足取りで踏み込むころん。
だが、足元が崩れ、
次の瞬間──
ころんの足が、石に絡まり、
そのまま地面に倒れ込んでしまう。
さとみ「ころん!」
さとみが叫ぶ。
その声に、ころんの胸が張り裂けそうになる。
だが、すぐさま、
さとみはころんを支え、強く引き上げた。
さとみ「逃げろ! 今すぐ!」
だが、その時、背後で大きな音が響き渡った。
追っ手だ──!
ころん「お方さま!」
ころんの息が漏れる。
目の前に、
無情にも一人の侍が現れた。
その瞳には、鋭い光が宿っていた。
侍「逃がすわけにはいかん」
その一言に、ころんの心臓が大きく震える。
まるで時が止まったかのように感じられた。
さとみは、一瞬の迷いも見せずに刀を抜いた。
さとみ「俺が、逃がす。」
そして──さとみが、
刀を一閃させる。
侍「……くっ!」
侍の腕にかすかな傷をつけたが、
その背後から、さらに別の侍たちが現れ、
囲まれてしまう。
「お方さま、逃げて!」
ころんが叫ぶも、
さとみの瞳には決して譲らぬ決意が宿っている。
さとみ「ころん、行け!
ここで引き下がるわけにはいかない!」
ころんの心が、
その一言で震える。
ころん「お方さま……!」
さとみの気迫に、
ころんは一瞬だけ足を止め、
だがその瞬間、
すぐさま逃げるべきだという声が頭の中に響いた。
「逃げろ、ころん! 俺が時間を稼ぐ!」
その一声が、
まるで命を懸けた合図のようだった。
ころんは、
顔を歪ませ、
その場を離れようと決意する。
けれど──
その瞬間、
さとみは刃を交えながら、
すぐに次の一撃を放とうとするが、
敵のひとりが近づいてきた。
その時、
ころんの目の前に
さとみが突如として倒れる──!
ころん「お方さま!?」
ころんの叫びが、
追っ手の冷たい笑みを引き出した。
侍「お前も、ここで終わりだ。」
ころんの胸が、
一瞬で冷え切った。
さとみの命が、
あと数秒で奪われようとしている。
その瞬間、ころんの心は、
世界から引き裂かれるような感覚を覚えた。
だが、その時──
ころんは、
誰にも思いもよらぬ行動を取る。
ころん「……わっちが、
お方さまを──守る!」
ころんは、
その場に立ち尽くすことなく、
走り出した。
痛みをこらえて、
わずかな間隙を突き、
さとみの命を守るために──
全力で駆け抜けた。
痛みをこらえて、
わずかな間隙を突き、
さとみの命を守るために──
全力で駆け抜けた。
その先に、
光が見えた。
第五章 完
第六章 「幸」へと続く