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アパートへ越して来て暫く、俺は一目惚れした八吹 亜子さんとどうすればもっと近付けるか日々悩んでいた。
このアパートに住んでいる事は内見時に知ったけど、まさか隣の部屋だったとは思わなくて、引越しの挨拶に行った時に驚いて思わず喜びの声を上げそうになる程だった。
あくまで挨拶程度の関係だけど、大家さんがお喋りな人でそこから色々と情報を得る事が出来た。
彼女はシングルマザーで、凜という息子と二人暮らし。
元旦那と別れた理由が気になるところだけど、シングルマザーだと色々困る事もあるだろうから何か力になれないかと思っていた矢先、俺に転機が訪れた。
仕事から帰宅してアパートの階段を登っていると、何やら男女の争うような声が聞こえて来る。
男の方は聞いた事が無い声だったけど、女の方は紛れも無く隣の八吹さんのものだった。
いても立っても居られず階段を上る足を速め、
「おい、何やってんだよ? トラブルなら警察呼ぶけど?」
言い争う二人の前に姿を見せる。
「あ? 何だよ、テメェには関係ねぇだろ?」
「隣の部屋で変な事件とか起きたら嫌だし、何か言い合いしてるっぽいし、気にすんのは普通だと思うけど?」
「っクソ! おい亜子、また来るからな」
いきなり現れた俺に不快な態度を露わにしていた男は初めこそ強気に出ていたけど、俺が正論を口にした事や引く意思が無い事を悟ったのか苦々しい表情を浮かべると、『また来る』という台詞を残してアパートの階段を降りて行った。
男がアパートから離れていくのを確認した彼女は安堵して小さく息を吐く。
「――平気?」
「え?」
「顔色悪そうだけど……」
「へ、平気です! それよりもありがとうございました、助かりました」
「ああ、別に大した事はしてねぇから。つーか、さっきの男は――」
「ママぁ!!」
今の男は一体誰なのかを問いかけようとした時、部屋の中から子供の泣き叫ぶ声が聞こえて来た。
「あ、すみません、あの、本当にありがとうございました、失礼します!」
泣いているのは彼女の息子で、一人で部屋に残されて心細くなったのだろう。それに気付いた彼女はお礼を口にすると慌てて部屋へ戻ってしまった。
(……さっきの男、恐らく元旦那……だよな)
どんな男か知りたかったとは言え、こんな形で知る事になって少し複雑な気持ちにはなったけど、困っている彼女や男が去り際に吐いた『また来る』という台詞から察するに、八吹さんは元旦那から逃げているようだ。
そんな彼女の力になるにはどうするか、とりあえず再び男が現れたら何があっても守ってやりたいと密かに決意を固めていた。
あの日以降、八吹さんがタクシーを使って移動している姿を何度か見掛けていた。
それは恐らくあの男が付き纏っているか、警戒しているからだとは思うけど、姿を見せない以上俺が何かをする事は出来ず、金銭的にも大変そうな彼女をただ見守るしか出来ない事に歯痒さを感じていた。
そんなある日の週末、
「正人……もういい加減にしてよ……」
煙草を吸う為キッチンの換気扇下に立っていると、玄関の外から八吹さんの声が聞こえて来た。
どうやらあの男が再び部屋まで押し掛けてきたようで、これはチャンスだと俺は煙草を灰皿に押し付けすぐに外へ出た。