満面の笑みとはまさにこの事。
「はい!ボールペンと万年筆、どちらが宜しいですか!?」
「ーーーーー」
「朱肉は丸と四角がありますが、どちらがお好きですか!?」
「ーーーーー」
宗介はクッションを抱えテーブルの横で果林の顔を覗き込んだ。
(犬みたいだ)
飼い主にボールを投げてくれと尻尾を振る大型犬が隣で座り目を輝かせている。確かに断る理由などなにひとつ無い。
「では、書きます!」
「ボールペン、万年筆、丸、四角!」
「そのどれも要りません」
「ーーーーえ、なんですかそれ」
果林はシャープペンシルを取り出すとカチカチカチと芯を出した。
「シャープなペンソー」
「はい」
「間違えると困るから?」
「いえ、再婚禁止期間が明けてから書こうと思います!その時はボールペンでお願いします!」
宗介の眉毛は八の字になり眉間に皺が寄った。
「それはまた面倒な」
「私なりのけじめです」
「真面目」
「節度ある行為です」
カーペットの上に伏した宗介は恨めしい面持ちで果林を見上げた。
「じゃあ《《あっち》》もお預けですか」
「あっち?」
「夕方の続きです、愛の行為です」
「なっ、生々しい表現しないで下さい!」
「じゃあ、セッーーー」
「それも言わないで下さい、分かりますから!」
「ですよねーー」「ですよねーー」
「で、そちらはご検討頂けるのでしょうか」
「ーーーモチロンデス」
「はい!?聞こえませんでした!もう一度!」
「勿論です!そちらの相性も大事ですから!」
「38歳なのでお早めにお願いします」
「現実的ですね」
「重要事項です」
宗介は携帯電話を開いてGoogleカレンダーを果林に見せた。
「なんですか?」
「10月5日|Apaiser《アペゼ》がオープンします」
「はい、半月後ですね」
「この前日、10月4日が私の誕生日です」
「そうなんですね!おめでとございます!」
「ーーーありがとうございます、39歳です」
「なんだか暗いですね」
「なんとなく祝う気分にはなれません」
「そうですか」
「はい」
カレンダーをスクロールして見せたそこには 果林♡ と表示されていた。
「これはなんですか」
「なんと!10月3日に再婚禁止期間100日達成です!」
「えーーーーー、計算したんですか!」
「当たり前じゃないですか!」
「そうなんだ」
「神様が私に下さった贈り物に違いありません」
「ーーーはぁ」
「なんですか、その気のない返事は」
「なんとなく」
「そうですか」
「はい」
果林は1人で盛り上がる宗介を横目に婚姻届記入欄にシャープペンシルで一文字、一文字丁寧に 羽柴果林 と書き込んだ。離婚届を書いた梅雨の頃が遥か昔の事の様だ。
「宗介さん」
「なんですか」
「ありがとうございます、私、今すごく幸せな気分です」
「そうですか」
「はい」
宗介は果林の顎を優しく摘むと唇を重ねた。
「早く怪我が治りますように」
「ありがとうございます」
「《《あっち》》が出来ませんから!」
「そっちですか!」
素麺を啜った夜、婚姻届に印鑑が捺される事はなかったがシャープペンシルで2人の思いが繋がった。
|Apaiser《アペゼ》開店を10月5日に控えた企画室は|大童《おおわらわ》だった。|柞《いす》の木のフローリング、白い壁紙、アクセントとして使用した|漆喰《しっくい》は海岸沿いの小径の雰囲気を醸し出した。
「ーーーうん、良い仕上がりだ」
「そうだろう?」
宇野は得意げにテーブルに手を付いた。
「このテーブルと椅子は特注品だったな」
「ヒッコリーの強度は抜群、衝撃にも強い」
「それなら《《あいつ》》が暴れても壊れないな」
「あいつ?」
「木古内和寿だよ」
宗介の目は店内と庭園を仕切る全面ガラスの扉を恨めしく見た。
「まーーーだ根に持ってるの、果林ちゃんの怪我も随分良くなったみたいだし、あとは警察と弁護士に任せておけば問題ないだろ」
「一発殴っておけば良かった」
「なに、聞こえなかった」
「あっ、宗介さん♡」
菓子工房から顔を出した果林の声は上向き加減だ。2人は頃合いが図れず最後の一線を越える事はなかったが帰宅すれば密着24時、夜は宗介のベッドで一緒に眠っている。
「かーーーりんちゃーーーん、仕事場に はあと は要らないから!」
「ごめんなさい」
それでも はあと は飛び交い現場スタッフはお手上げ状態でそれを生温く見守っていた。
「果林♡」
「ほらほらほら、仕事場に はあと は要らないから!」
そんな宇野の言葉に耳を貸さない宗介は仕事を抜け出しては|Apaiser《アペゼ》に顔を出し、バックヤードで皿やカトラリーの点検を行なっている果林に擦り寄った。
「疲れていないか」
「大丈夫ですよ」
「はいはいはい はあと は出て行く出て行く!」
「ーーーちっ」
果林がプレオープンの招待状をせっせと折れば、宗介は背中からテーブルに手を付き覆い被さって囁きかけた。
「疲れていないか」
「いいえ」
「休憩に行かないか」
「今、忙しいので離れてく・だ・さ・い!」
「はいはいはい、副社長は業務に戻った戻った!」
「ーーーちっ」
企画室スタッフから開店準備の妨げになると出入り禁止を喰らった宗介だが、会社公認の職務が発生し小躍りで|Apaiser《アペゼ》に入店した。それは|Apaiser《アペゼ》の記念樹、カリンの植樹だった。
「はーーい、こちら向いて下さい」
会社広報課や地元新聞社のカメラに満面の笑みで応える|副社長《宗介》の手は|Apaiser《アペゼ》オーナーの果林の腰に回されていた。
「宗介!おま、披露宴じゃねーんだぞ!」
「ーーーちっ」
宗介は深紅の薔薇色の日々を過ごし、遂に大輪の薔薇が花開く10月3日を迎える事となった。
シャワーを終えた果林がバスタオルで髪を拭きながらリビングに向かうとなにやら情緒満点、シーリングライトは消灯、間接照明に宗介の姿が浮かび上がっていた。
(ーーーーん?)
チェストの上にはキャンドルの灯りがゆらめきラベンダーの香が漂って来る。
「宗介さんにアロマキャンドルの趣味があったとは知りませんでした」
「今日、秘書に買って来させた」
(ーーーー秘書の意味)
「気持ちを鎮める効果があるらしい」
「それにしては」
落ち着かなくてはならないのは如何やら宗介の方だ。右手にはボールペン、左手には朱肉を持って正座している。当然の事テーブルには例の婚姻届が広げられていた。
「果林、今夜が年貢の納め時だ」
「時代劇ですか」
「果林、今日が何日か気が付いているのか」
「あーーープレオープンとか忙しくて、2日?」
宗介は首を左右にぶんぶんと振ると眉間に皺を寄せた。
「果林はダーリンの誕生日を忘れたのか」
「3日、かな?」
「ちがーーーーーう、ブッブーー4日だ」
「子どもですか」
「今日は10月3日だ、おめでとう」
「おめでとう、なにがですか?」
ボールペンと朱肉をテーブルに置いた宗介は胡座を掻くと手招きをして果林を膝に座らせた。これは心地良いが何度やっても気恥ずかしく果林は頬を赤らめた。宗介は婚姻届を両手で持つと果林の目の前に近付けた。
「ちょっ、そんなに近いと見えませんって!」
「あ、すまん」
「婚姻届が如何したんですか」
「おめでとう今日は10月3日、再婚禁止期間の最終日!あと3時間で時効成立だ!」
「警察ドラマですか」
「そして明日はダーリンの誕生日だ」
「おめでとうございます」
「なに白けた顔をしているんだ」
「だって39歳のお祝いはしたくないって言っていましたよね?」
「39歳は嬉しくないが誕生祝いはしたい」
「あ、そうなんですか?」
宗介は果林を抱きしめ左手を出せと手首を掴んだ。
(あーーーー)
流石の果林もこの状況で手相を見るとは思えず思いっきり手を開いてみた。案の定それは薬指にするすると嵌はまった。
「指輪のサイズはいつ測ったんですか」
「企画室にあったホワイトボードマーカーが似たようなサイズだったから店に持って行った」
如何してこういう事が思い付くのだろうかと思わず失笑してしまった。
「8号くらいだというので、丁度良いな」
「浮腫んだら分かりませんけれど、ピッタリです」
「感動しろよティファニーだぞ」
「わあー」
「1.5ct
カラット
だぞ」
「わあー」
それは繊細な4本爪セッティング、中央のダイヤモンドに向けて細くなるテーパード型のリングが美しく輝いていた。背中を向け俯き加減の果林の目尻には熱いものが浮かび、それは目頭を伝って宗介の膝に落ちた。
「ーーーなんだ、泣いているのか」
「ーーー」
「まだ言って無かったな」
宗介は果林の首筋に顔を埋めるとくぐもった声で熱く囁いた。
「羽柴果林さん、私と結婚して下さい」
「ーーーっ」
「果林さん、大切にします」
果林は振り向くと涙を溢した。
「私で良いんですか」
「はい、果林さんが良いんです」
「勉強も、短大卒業ですよ」
「学歴なんて関係ない」
「顔だってチンチラって言われますよ、ネズミですよ」
「動物は可愛い」
「胸だって、胸だってこんなに小さいし!」
「私が大きくしてあげます」
「大きくなるの?」
「なるんじゃないですか?」
そこで2人は小さく笑った。
「もう一度言って下さい」
「結婚しよう」
「はい」
「結婚して下さい」
「はい」
宗介は力一杯、華奢な果林を抱き締めた。
「ーーーさて、と」
宗介はおもむろに立ち上がるとシーリングライトのリモコンを掴んだ。
「あかりセレクト、図書館だな」
「図書館の明かり、程よく明るいですね」
「これなら細部までバッチリだ、さぁボールペンはどのメーカーが好きですか?」
「んーーーー」
色は黒、5本のボールペンを握っていた。
(やる事がいちいち細かいというか、こまめだな)
果林は水性ゲルインクボールペンを選んでそれを手に握った。その姿を見た宗介は最上級の笑顔で喜んだ。果林はシャープペンシルで書き込んだ下書きをボールペンで丁寧になぞり2人はインクが乾くのを待った。
「まだかな」
「まだじゃないですか?」
宗介はティッシュペーパーを手に持つと余分なインクを吸い取りフゥフゥと息を吹き掛けた。それでも滲んでは大変だと消しゴムを掛け印鑑を捺すのは明日に持ち越す事になった。
(さすが副社長、慎重だな)
そこで宗介はシーリングライトの明かりを消して果林を凝視した。
「如何しましたか?」
ゆっくりと顔が近付き唇を3回啄んだ。
「あと1時間半で私の誕生日なんです」
「ーーーはい」
「誕生日を祝って下さい」
「歌でも唄えば良いんでしょうか?」
宗介はもう一度唇を重ねた。
「私の身体の下で」
「身体の下で?」
「啼いてみませんか?」
「ーーーえっ」
宗介は開け放った扉を指差した。
「なっ、啼く」
「私も毎晩ベッドの中で我慢したんですよ」
「そ、そうですよね」
「褒めてもらいたいですね」
宗介はカーペットに膝をつきじりじりと手を伸ばし果林をソファーの窪みへと追い込んだ。その目は熱を帯び臨戦態勢である事は明らかだった。それにしても心の準備が出来ていない、下着も宗介好みのシルクのパンティでは無かった。
(初めての夜が綿100%は失礼に当たるーーよね)
「果林さん、さぁ、啼きましょう!」
「あ、あの!」
「あのもそのも、もう無しですよ。誕生日のお祝いですから派手にやりましょう」
「はっーーーー派手に!」
尚の事、綿100%の下着は不相応だ。
「そ、宗介さん!」
「なんでしょうか」
「とっ、トイレと、もう一度洗って来て良いですか!」
宗介の眉間には皺が寄ったが腕組みをして暫し考えた。
(なにか《《準備をする事》》があるのか)
「分かりました、それでは私も洗い直しましょう」
「あーーーらいなお、す」
「はい、あんな事やこんな事があっては困りますので」
(ーーーーどんな意味!?)
そこで10分後に宗介のベッドで集合という事になった。
(集合って遠足に出掛ける訳じゃないんですけど)
情事の雰囲気半減どころか皆無の初夜を迎える果林はベッドの上にありったけのパンティを並べ仁王立ちして見下ろした。
(これはもう見せたし、これも見せたーーあっ、これ!)
いつぞやのランジェリーショップでレースが美しいと宗介が大絶賛していた濃紺に薄紅と|橙《だいだい》の雛菊がフロントにあしらわれた大人の女性のキャミソールとパンティーのセットアップ。
「よし、これだ!ドーンと来い!」
方向性が違う様な気もするが、隅々まで磨き上げた果林はそれを身に付けて宗介の部屋へと向かった。鼻息も荒く意気込んで部屋の扉を開けたがそこに宗介の姿は無かった。あれやこれやと言っていた割に宗介も《《色々と準備》》する事があったらしい。
(ーーーどうしたら良いのだ)
ぼんやり立っているのも間抜けに思い果林はいつもの様にベッドに潜り込んだ。仰向けになると天窓に猫の目の様な三日月が見えた。12日前、初めて宗介の隣で眠った時は綺麗な満月が出ていた。やがて満月は新月になりこうして再び満ちて来た。
(確かにーーー抱き締めるだけでなにもしなかったな)
心から大切にされていると思った。そこで一瞬気が緩んだ果林は顎が外れそうな程の大欠伸をした。
「おや、|大欠伸《おおあくび》とは余裕ですね」
「仕事で疲れていて」
「そうですか」
「ごめんなさい」
「もっと疲れさせてしまったらごめんなさい」
「ーーーーー」
ぎしっ
宗介がマットレスに膝を突き、ベッドが軋む音に果林の身体は強張った。
(き、緊張しない!リラックス、リラーーーックス)
果林は心の中でそう唱えながら胸の前で握り拳を作り神に祈った。なにせセックスなど何年振りだろう余裕など1mmも無かった。
「果林、力を抜いて」
「むっ、無理です」
そこで宗介がタオルケットに潜り込んだ。
「ーーーえっ」
もぞもぞと動き回る宗介は足首を掴むと足の指を一本、また一本と口に含み始めた。爪先から駆け上がる微妙な感覚に果林は飛び上がった。右足の指を堪能し尽くした唇は左の小指を喰んだ。
「やっ」
果林は思わず仰け反り|嬌声《きょうせい》を漏らした。
「これは邪魔ですね」
宗介はタオルケットを勢いよく剥ぐと両足首を掴んで持ち上げ果林の目を凝視しつつ足指を堪能し始めた。軽く噛み、口に含み舐めて吸い上げる。その呼吸する様な愛撫に果林は顔を背けた。
「こっちを見て」
「嫌です、恥ずかしい」
「見て」
深く静かでいて唸るような声に果林は従うしかなかった。
(ーーーこんなの初めて)
果林は両足を抱え上げられしゃぶり尽くされる自身の姿を恥じらいつつ身悶えた。両足首を抱えていた指先は果林の|脹脛《ふくらはぎ》を撫で膝で円を描くと太腿を撫で上げた。
「ーーー!」
「気持ち良いでしょう」
果林が首を左右に振ると宗介は口元を歪め、今度は太腿の脇から撫で下ろし膝裏を突いて脹脛を軽いタッチで触れた。それを何度繰り返しただろう、果林の乳房の下には汗が滲み女性特有の香りが匂い立った。
「ーーーん」
両膝裏を抱え上げた宗介は|内腿《うちもも》を舐め太腿の付け根で細かく震わせた。果林は背中を逸らしてその快感に耐えたが舌先がパンティの縁から中へと差し込まれた瞬間、声が漏れた。
「あっ!」
「失礼」
腰を引いて逃げようとしたが宗介の手はそれを許さなかった。上半身と下半身で交互に寄せては返す快感の波に果林の脳髄が白く霞んだ。
「ーーーん」
「さぁ、脱ぎましょうか」
身が|蕩《とろ》け始めた果林は力無く素肌を晒した。華奢な身体に丁度良い具合の乳房、宗介は堪らずその胸に頬擦りした。
「そ、そうすけさ」
「はい」
「そうすけ、さん、アッ!」
果林の両腕がその背中にしがみ付き宗介の名前を呼ぶ。
(ーーーもう良い頃ですね)
果林の背中が弓の様に反り返ると身体が小刻みに震えた。
「も、もう」
ぎしっ
昂った果林がうっすらと目を開くと宗介の唇が額を啄んだ。
「宗介さん」
「初めて見る果林さんです」
「見ないで下さい」
果林は両手で顔を隠した。
「今、私は嬉しくて」
「嬉しくて?」
「堪りません」
「ーーーあっ」
「緊張しないで」
宗介はそれに手を添えるとゆっくりと下半身を突き出した。
「ーーーんっ」
「力を抜いて下さい」
宗介は果林の身体を突き上げたい衝動に駆られながらも耐え忍んだ。
「少し動かしますよ」
果林は顔を隠したまま無言で頷いた。
「大丈夫ですから」
浅く前後する腰は果林の身体を小刻みに揺さぶった。
「そんなに締め付けないで」
「む、無理です」
「ーーー!」
「もう無理です、我慢出来ません、ごめんなさい」
「ーーーあ」
小ぶりな胸が上下に揺さぶられ果林の指先がシーツに皺を作った。
(ーーー宗介さん苦しそう)
垣間見た宗介の額には汗が滲み眉は歪み口元はきつく結ばれていた。
(感じてくれているんだ)
果林の中で宗介への愛おしさが込み上げその手は自然と背中にしがみ付き爪を立て、気が付けば脚を蔦のように絡みつかせ腰を引き寄せて居た。
「か、りんさ」
2人が深く繋がった瞬間だった。
「あ、あ」
「んっ、んんっ」
宗介は苦悶の表情を浮かべた。果林は身体の中心から爪先へとアルコールが紙に染み渡る様な快感を覚えた。
「ーーー!」
「か、果林さん」
宗介は深い呻き声を上げ果林の名前を呟いた。
熱を帯びた吐息が籠るベッドには、果林の隣で仰向けになった宗介の姿があった。果林はその横顔を眺め頬を指で突いた。
「ーーーなんですか」
「すごかった」
「そうですか、出来るか心配でした」
「38歳、あ、39歳だから?」
「5年ほどしていなかったので」
果林は目を丸くした。
「こんなにカッコいいのに!」
「ありがとうございます」
「なんで!」
「仕事の方が楽しくて」
「そうなんだ」
「それに2年前からは果林さんの事しか見えていませんでしたから」
「ーーーーぶっ!」
宗介は果林に向き直ると力強く抱き締めた。
「もう放しません」
「はい」
「私の果林さんです」
「はい」
ふと気が付くと内股に硬いものを感じた。
「ーーーまさか」
「明日、いえ今日は私の誕生日ですから!」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
宗介は果林をきつく抱きしめた。
翌朝、果林がベッドから起き上がるとそこには乱れに乱れたシーツ、首筋以外に花咲くキスマーク、髪の毛はボサボサだった。
(ーーーーいない)
家の中に宗介の姿は無かった。果林は脱ぎ捨てたキャミソールとパンティーを探したが見当たらない。それはリビングのソファの上に綺麗に畳んで置いてあった。
(やはりマメだ)
それをむんずと掴み上げると素裸のままシャワールームへと向かう。日頃から口うるさく言われていたのでシルク素材は手洗い、面倒だと思いつつもお洒落着用洗濯洗剤で押し洗いし浴槽内物干しにピンチで止めた。
(腰が、痛い)
腰というより全身筋肉痛だ。あの後もう1回、合計3回愛の営みとやらを堪能させられた。
(ーーーでも、気持ち良かったから許す)
5年ぶりだという宗介のセックスは丁寧で心地良いものだった。《《あっち》》の相性も良いのだろう寝不足の筈だが顔色は悪く無い、なんなら調子が良い。洗面所で歯を磨いていると扉がノックされた。
「おはようございます」
「おふぁよーごらいまひょ」
「朝食の準備が出来ましたから」
「ふぁ、ふぁいっ!」
部屋着に着替えてリビングに行くといつか見た光景と珈琲の芳しい香が漂っていた。サンドイッチを作って来たからどうぞ、とドヤ顔で腕組みをしている。確かに初めて作ってくれたサンドイッチよりも格段に腕が上がっていた。バターの量も丁度良い、具材もバラエティに富み切り口も綺麗だ。
「すごい!綺麗に切れましたね!」
「あぁ、それは板さんが出勤して来たからお願いしました」
「ーーー正直で宜しいですね」
と、満腹になったところで宗介は皿やコーヒーカップを手際よく片付けテーブルをアルコールスプレーで消毒し綺麗に拭き上げた。
「あ、じゃあお皿、洗いますね」
「それは後で良いです」
振り向くとそこには片手に消しゴム、朱肉と印鑑、テーブルには婚姻届が広げられた。
「さぁ、果林さん!シャープなペンソーは消して下さい!」
「あぁ、シャープペンシルですね」
「はい!」
果林は消しゴムを受け取ると紙が破れない様にゆっくりと丁寧にこれまでの人生を消した。
「私、宗介さんの奥さんになるんですね」
「はい!」
「宗介さんが私の旦那さんになるんですね」
「そうなりますね!」
「幸せです」
「私はその倍幸せです」
「私はその倍の倍の倍幸せです!」
とうとう宗介はリビングの中をぐるりと回って「これくらい幸せです」と笑って見せ、果林が「えーーーそれくらいですか」と口を尖らせると「宇宙の果てまで幸せです!」と目を輝かせた。
「準備は出来ましたか」
「はい」
仕立ての良い濃灰のスーツに深紅のネクタイを締めた宗介はいつよりも素敵に見えた。果林がその姿を爪先から足の天辺まで見上げると不意に目が合い軽く唇を啄まれた。思わず頬が緩む。
「果林さん、襟が曲がっていますよ」
「あ、ありがとうございます」
果林は宗介からこの日の為に準備したのだという白い襟に7部袖の黒いジャストウェストのワンピースを手渡された。それは婚姻届提出に相応しい上品なジョーゼット生地で、ボタンをひとつ、またひとつと留めると幸せが込み上げて来た。
「婚約指輪はどうしたんですか」
「え、あんな高価な指輪恐れ多くて付けられませんよ」
そう何度も断ったが身に付けて欲しいとせがまれた。
「今日だけですよ」
「はい」
「無くしたら困りますからね」
「はい」
降り注ぐ朝の日差しの中で宗介は果林の手を取り左の薬指に煌めく婚約指輪を嵌めた。
「愛しています」
2人は優しい口付けを交わした。
「さて、そろそろ市役所の開庁時間ですね」
「そうですね」
「車を回してくれ」
宗介は例の如く秘書室直通の内線電話を取ると車を一台回してくれと伝えた。そして10分後、果林はTOYOTAクラウンの後部座席に押し込まれた。
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