含まれる要素
・人外化
瀬川晴彦×蛇草深影(人魚)の話
ハルくんと人魚の深影ちゃん
買い出しを終えて家の鍵を開ける。外の炎天下に比べれば家の中は涼しく、心地よい。ただいまです、と声を出せば、風呂場の方から、おかえり、と声がした。買い物袋を持ったまま、声のする方に向かえば、一人暮らし用の小さなバスタブに人魚が居る。陶磁器のような白い肌に、真っ黒な尾びれをした、御伽噺に出てくるような、人魚。
深影と言うらしいこの人魚は、それはそれは人様の家で大層お寛ぎになられていた。
こうなった経緯は数ヶ月前のこと。
瀬川晴彦は、なんとなく眠れなくて、明け方の海へと車を走らせた。何かが辛かった訳でもないし、海に行きたいという強い感情があった訳でもない。ただ、本当に、何となく。
その日の海は綺麗で、日が昇ってくるのをぼーっと見ていた。前日の大雨など無かったかのように、日の出は静かな一日を連れてきた。
その後は何となく、海辺をフラフラした。そんな時、倒れてる人間を見つけたのだ。いや、厳密には人間ではなく人魚だったのだが。鱗は薄らと乾き始めていて、呼吸も浅い。晴彦は救急を呼ぶべきなのか、それとも海へ返すべきなのか、思い悩んだ挙句家へと連れて帰った。今思えばパニックに陥っていたのだろう。とりあえずバスタブに水を張って、人魚を放り込めば、暫くしてから目を覚ました。深影はハルを酷く気に入って、「あんたが良ければここにしばらく居させて。」と告げた。今更だが、晴彦は深影の容姿が大変好みであった。風呂に多少入りにくくなるな、と思いはしたが、なんやかんやでこの奇妙な同居生活を始めることになったのだ。
「外暑かったでしょ、風呂入る?」
「後でにします。それより深影さん。」
「なあに」
「風呂の水変えますよ」
「え、」
深影は心底不思議そうな顔をした。浴室から尾びれの一部がはみ出て揺れている。
「だってそろそろ変えないと。汚い水嫌ですよね?」
「でも水から上がるのも嫌なんだよねえ」
「マコモ人魚って呼びますよ」
「えっ やだ」
深影は意を決したかのように顔を上げる。水棲生物と言えど、短時間であれば水から上がっても問題無いらしい。晴彦は深影を水から上げ、浴室の椅子へと座らせる。
「シャワーで水浴びてて良い?」
「どうぞ」
晴彦は浴槽の水を抜いて、洗剤でバスタブを洗う。特に汚れている訳でもないし、深影本人が気にしないというのならば良いのかもしれないが、狭いバスタブにいるのだから、せめて快適な環境で過ごして欲しい、というのがハルの感情であった。
「シャワー貸してもらっていいですか?」
「ああ、いいよ もちろん」
深影からシャワーヘッドを受け取って、バスタブを流していく。洗剤の爽やかな香りが流れて言って、いつものボディーソープの匂いが染み付いた浴室が戻ってくる。
改めて水を張り直して、深影を定位置、バスタブへと戻す。
「ふー、快適」
「なら良かったです」
「ハル、」
なんですか、と声に出そうとして声に出来なかった。深影は晴彦の頬に手を添えて、そのまま唇を重ねた。人間の温度とは違う、ひんやりとした感触だった。
「ありがと、嬉しい」
水滴がいくつか晴彦にもかかって、温度を奪っていくが、そんなことは気にならなかった。雨上がりの外のような空気がこの狭い空間に木霊しているような感覚さえする。
「このまま風呂入る?」
「あ、買い物袋の中身だけしまってきます。」
「分かった」
深影は晴彦の背を見送る。水を張り替えて、綺麗になったバスタブの縁をなぞりながら、冷たい水とは裏腹に顔に集まる熱を見なかったことにする。王子に恋をした人魚姫もこんな気持ちだったのだろうか。
「好き、なんだよなあ」
吐いた言葉は泡と一緒に消えた。
この時の深影は浴室の外に晴彦がいて、聞いていたことなど知る由もないのだが。
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