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「ほらほら、ちゃんと奥まで突っ込むんだよ!」
紫雨の声が頭上から聞こえる。
「掻き出して、掻き出して~」
飯川の笑い声も響く。
「もっと気合いを入れて綺麗にしてください」
林の冷たい声もそれに続く。
「もう、………無理です」
荒い息をつきながらやっとのことで言うと、紫雨の呆れた声が聞こえてくる。
「ダメだよ、そんなんじゃ。全然綺麗になってないじゃん」
「でも………、俺、限界で………」
「何が限界なの?」
「こんなの、無理ですって………」
「はぁ?根性ないなぁ。林は耐えたよなぁ?」
2人の下卑た笑い声が聞こえてくる。
「もう、俺、腰が…………」
「腰が?」
「腰が……限界だってぇ!」
新谷は立ち上がった。
すっかり暗くなった天賀谷ハウジングプラザのセゾンエスペース展示場の前、通路脇の側溝に由樹は座り込んでいた。
玄関灯に照らされてやけにテカって見える側溝のヘドロは、腐敗臭がし、油断すると吐き気が胃から上がってくる。
「これさ、定期的に新人が罰ゲームしてくれるから、綺麗になっていいよな」
紫雨が林に寄りかかりながら笑う。
「これがパワハラだって言って辞めたやつもいるので、止めたほうがいいと思いますけど」
林はため息をつきながら、2人を交互に睨んだ。
「こんなんで音を上げるようなやつ、どーせ続かねぇから、さっさと辞めたほうがいーんだって」
紫雨は笑いながら、由樹が掻き出したヘドロの入った袋を持ち上げた。
「……重っ!」
バランスを崩した紫雨の手から、ヘドロが垂れ、由樹の髪の毛と腕捲りをしたワイシャツにかかった。
途端に腐敗臭が鼻につき、由樹はえずいた。
「悪い悪い。ヌルヌルしてて手が滑ったわ」
紫雨と飯川が腹を抱えて笑っている。
(く…………くそっ!!)
悔しさと臭さに胸が焼ける。
屈辱に堪えながら紫雨が溢した分も掻き出すと、改めて袋に入れた。
「はい、ごくろーさん!」
言うと紫雨は、今度こそ袋を持ちあげて笑った。
「よし。帰ろうぜ。新谷君、最後、展示場の電気だけ消していってね。お疲れー」
言いながら袋を持って管理等の方へ歩いていった。
飯川と林も、それぞれ鞄を持って、駐車場の方に消えていく。
由樹はため息をついた。
「まあ、罰ゲームがこんくらいで済んで、良かったと思おう……」
自分を納得させるために呟くと、使った器具を洗うべく展示場脇に移動した。
立水洗を捻り、水を出して器具を洗う。
その際にも、洗い流したヘドロからか、それとも自分の髪の毛からか、凄まじい臭いがし、新谷はまた軽くえずいた。
涙を流しながら洗っていると、
「あれ。新谷君」
いつのまに事務所に戻ってきていたのか、秋山がこちらによってきた。
「何してるの」
「あ、えっと。側溝の掃除を………」
秋山の狭い眉間に皺が寄る。
「こんな夜に?」
「え、えっと、臭いが気になったもんで……」
言うと秋山は納得したんだかしていないんだか、首を捻ったまま頷いた。
「……時庭に一旦、戻るんだよね」
「あ、はい。そのつもりですが」
「もう遅いから必ずしも戻らなくてもいいけど、直帰するときは篠崎君に電話してね」
「はい」
言うと、「おつかれー」と秋元は駐車場へと歩いて行ってしまった。
「……俺も早く帰ろ」
水滴をペーパータオルで拭き取ったところで、視界に袋詰めされたままのワイシャツが入ってきた。
「これ、貰い物だけど」
視線を上げると、そこには帰ったはずの紫雨が立っていた。
「あげる。体型だいたい一緒だからサイズ大丈夫でしょ。臭いから着替えてから帰れば」
(もしかして、さっきヘドロをかけたこと、気にしてんのかな)
由樹は紫雨のぶっきらぼうな顔を見上げた。
「要らないならいいけど?」
「あ、ありがとうございます」
ありがたく貰うことにする。
「髪の毛も、展示品のシャンプー、使っていいから。軽く洗面所で洗っていったら?」
言いながら鞄を肩にかける。
「あ、えっと……」
「そのままじゃ、篠崎さんに嫌われるよー」
言いながら踵を返した。
背中を向けたまま、紫雨は口を開いた。
「君のさ。人の心を開く接客力だけは、認めてあげるよ」
言うと、彼はスタスタと歩き始めた。
「……ありがとうございました!」
由樹はその後ろ姿に向かって、叫んだ。
(紫雨さんも、実は悪い人じゃないよな。……だいぶねじ曲がってるけど……)
由樹は遠ざかっていく華奢な背中を見てふっと笑うと、もらったワイシャツのパッケージを開きながら、展示場に入っていった。
ワイシャツを脱いで、新品のそれを取り出した袋に入れた。
洗面所の収納式シャワーノズルを引き出し、それで髪を頭ごと濡らす。
展示品のシャンプーを手に出し、両手に馴染ませると髪全体に馴染ませ泡立てながら洗った。
確かに今日、紫雨から言われたことは正論だ。
セゾンの家を買えない客に、いくら勧めたところで、気に入って貰えたところで、成約には結び付かない。
それでも彼らのアポを取ろうと思ったのは、構造見学に連れていこうと思ったのは、実は全く別の理由からだった。
それは………。
妙な音がした。
(……なんだ?)
疑問に思って視線を上げたところで、右手首を掴まれた。
「………っ!」
さらに左手を捻り上げられる。
(……くそ!……やられた……!)
瞬時に状況を理解した。
(側溝掃除も、溢したヘドロも、新しいワイシャツも、全てはこのためだったのか………!)
両手を拘束された由樹は、鏡に映った紫雨を睨み上げた。