「紫雨リーダーが出かけている間に電話が入りました」
事務所に戻ると林が相変わらず不愛想な顔で言った。
この男も最近調子に乗ってる気がする。
(そろそろお仕置きが必要かなぁ)
ここ数日で溜まったストレスを吐き出すにはちょうどいい捌け口かもしれない。
紫雨は目を細めて彼の目を見た。
その視線の意味に気づいたのか、林が顔を真っ赤に染めながら視線を逸らす。
「あ、あの、坂月様の奥様からでしたけど……」
「は?早く言えよ」
焦って自席に戻る。
基本的に契約済客には個人の携帯番号を教えるが、商談中の客には教えない。
これは要らないトラブルを避けるためなのだが、ごくたまに商談中の熱い客からの連絡の取りこぼしがあるため、気を抜けない。
慌ててデスクに貼られた付箋に書いてある番号を押し、受話器を耳につける。
明日、構造現場見学会のアポをとっているのに、今日連絡してくるということは、あまりいい電話ではない。
日程変更の電話か、そうでなければ断りの電話だ。
コールが鳴り響く間、鼓動が高まる。
夏のボーナスがかかっているのだ。この1棟は落とせない。
『はい』
夫人の、少し高飛車な声が響く。
「セゾンエスペースの紫雨です。本日お電話をいただいたそうで申し訳ありませんでした」
言うと、電話口の彼女は『いえ、こちらこそ』と笑った。
『申し訳ないんですけど、明日の構造現場見学会、主人に仕事が入ってしまって』
いかにも金を持っていそうな年の離れた旦那の顔を思い出す。
決定権者は間違いなくあの旦那だ。
「そうなんですね。それでは、日程を改めて組み直しますか?」
言いながらシステムを開く。
自分の現場は今週末にボードが張られてしまうためもう構造は見られない。
来週だとすると……。
ある。一つだけ。
篠崎の現場だ。
あの男に頭を下げるのは癪だが致し方な……。
『あ、いえ』
夫人は笑いながら言った。
『明日の構造現場見学会は、私一人でお伺いします』
「……奥様、お一人でですか?」
思わず片眉を上げてしまう。
『ええ。主人からも、そうするようにと言われているので』
「…………」
妙だと思った。
光熱費やインテリアに興味がある女性と違って、構造や性能を知りたいのは、どちらかと言えば男性の方だ。
しかもあの旦那はいかにも構造を見る大切さを理解しているようだった。
それなのに、見かけだけ綺麗で、あの頭の悪そうな妻に、そんな重要なことを頼むだろうか。
「……そうでしたか。わかりました。それでは明日は奥様お一人で。もしご主人様も一緒に改めてもう一度、ということでしたら、また日程を組むこともできますので」
『ええ。ありがとうございます』
鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌な夫人の声にも違和感を覚えた。
しかし客を疑ってもしょうがない。
ここで旦那とのアポを優先して取ろうとすれば、夫人が鼻を曲げかねない。
住宅メーカーは女性に嫌われたら終わりなのだ。
時間と場所を確認して、紫雨は受話器を置いた。
「…………」
斜め前から、心配そうにこちらを見る後輩の視線には気づかなかった。