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現場に近いという理由から、集合場所は時庭展示場にした。
本来、夫婦を案内するのであれば、昼前に天賀谷展示場で待ち合わせをして、近くの日本料理屋で昼食をご馳走してから現場にお連れするのが流れだが、夫人しかいないのであれば、下手に連れ回さない方がいい。
(というか、本当は二人きりっつうのもあまり良くないんだよな)
主人と二人きりなら問題ない。だが男である自分と、夫人が二人きりになるのはNGだ。
そこに年齢は関係ない。たとえ婆さんであっても夫が健在である場合は控えるべきだ。
(あのご主人、自分の若い妻が男と二人きりなんていかにも嫌がりそうなのに……)
改めて考えてみても違和感がある。
(でもまあ、そういうことで自分の寛容さや、信頼を示したがる男性もいるだろうしな)
自分には一生理解できないであろう感情にため息をつきながら、時庭展示場を見上げた。
(展示場で軽く間取りの説明をしてから現場に案内するか)
紫雨は腕時計で時間を確認してから、事務所のドアを開けた。
「お疲れです」
言いながら見回すと、相変わらず人気のない事務所には一番会いたくない人物が座っていた。
「お疲れ」
(……篠崎さん)
心の中で舌打ちをする。
(お疲れ?それだけ?俺に何か言うことないわけ?)
あの日から会っていないが、洗面所で髪の毛を濡らしながら血だらけになっていた新谷を見て、本当にこの男は何も勘づかなかったのだろうか。
(……だからやめとけって言ってんだよ、新谷君。この人君のことなんかどうでもいいんだから)
革靴を脱ぎながら上がり込むと、ホワイトボードを振り返った。
新谷のマグネットを見ると「銀行」と殴り書いてある。
「新谷君は融資相談ですか?」
ホワイトボードから目を離さずに篠崎に聞く。
「ああ」
ため息交じりに篠崎が答える。
「例の夫婦、父親が金を半分出してくれることになったから。残金の資金計画」
「……へえ。驚いた」
思わず本音が飛び出す。
「父親、マジで引っ張り出したんですか」
「ああ」
篠崎は興味なさそうに、自分のプレゼンファイルを眺めている。
「……あまり嬉しくなさそうですね」
言うと篠崎は視線だけこちらに向けた。
「嬉しくないわけじゃない。ただ、危険だと思っただけだ」
「……危険?」
「このところのあいつの受注はうまくいき過ぎている。新人こそたくさん失敗と挫折を経験した方がいいのに」
「…………」
紫雨はまたこめかみあたりが引くつくのを感じた。
(自分は新谷君の目先の受注に喜ぶんじゃなくて、長い目で見た将来を心配してますってか?)
とことん気に入らない奴だ。
紫雨は目を細めた。
「大丈夫ですよ。今後、彼がもし何かで挫折したら、俺がちゃんとサポートしますから」
その時、モニターにひらりと風に舞うスカートが映った。外階段をゆっくり上ってくる。
「あ、俺の客です。ちょっと、展示場借り……」
振り返ると、篠崎がすぐ後ろに立っていた。
「なぁ。お前に聞きたいことがあるんだけど」
「な、なんですか?」
思わず声が上擦る。
「……おかしいんだよな。いくら考えてもさ」
(なんだ、この威圧感……!)
客がもう来ているのに、まるで蛇に睨まれた蛙のごとく、指先ひとつ動かない。
「新谷がコーヒーで火傷したのは、人差し指なんだよ。俺が薬を塗ってやったんだから、間違いない」
「え?」
「だが今、あいつが包帯を巻いてるのは、親指だ」
言いながら一回りも二回りも大きい篠崎の手が、紫雨の手を掴む。
「……痛っ」
親指の付け根をぐっと押さえつけられる。
紫雨のこめかみから、冷たい汗が流れ落ちた。
「お疲れ様です!」
そのとき、勢いよく、誰かが入ってきた。
「展示場の前でお客様待ってますよ!」
慌てた様子でモニターを見上げた新谷は、紫雨と篠崎を交互に見てきょとんと口を開いた。
「何……してるんですか?」
篠崎は新谷と紫雨をそれぞれ一瞥した後、手を離した。
紫雨は咳ばらいをしながら二、三歩後ろによろけると、そのまま展示場へのドアを開けて、中に消えていった。
焦った顔。
吹き出した汗。
半分はカマを掛けたつもりだったが、どうやら図星だったらしい。
(……あんの野郎……)
篠崎がモニターを睨み上げると、やけに派手なワンピースに、若作りしたつばの広い麦わら帽子を被った夫人が、駆け寄ってきた紫雨を嬉しそうに迎えている。
てっきり展示場に寄っていくものと思ったが、彼はそのまま駐車場の方に彼女を案内している。
先方に時間がないのだろうか。
(……いや、違うな)
靴は事務所に置きっぱなしだ。
(展示場のサンダルで構造現場に行くつもりかよ)
いつも余裕たっぷりな彼にしては珍しく、相当焦っている。
そこまで焦らせる何かがあったことに失望しながら、口を開けてモニターを見ている新谷に言う。
「新谷。紫雨に靴持って行ってやれ」
「あ、はい!」
彼は慌てて紫雨の靴を持って事務所を出た。
(あの2人……何があったんだ)
口元に手を添え考える。
しかし、ここ数日、新谷の様子に目立った変化はない。
何かを悩んでいる風でもなければ、天賀谷展示場に行くことも、紫雨に会うことも、別に嫌がっている様子はない。
……想像したくはないが……。
事務所に戻ってきた新谷を見下ろす。
もしかして――――そういうことか?
「靴を忘れるなんて、紫雨リーダーにしては珍しいですね」
笑いながら戻ってきた新谷の顔には、曇りもなければ翳りもない。
下足箱についた白い右手を見る。
包帯を巻くほどの怪我に、紫雨が関わっているのは確かなのに……。
これはやはり……。
「お前って……緊縛プレイとか好き?」
「………は?!」
スリッパを履いた新谷が青ざめる。
「いきなり何を言い出すんですか?!」
言いながら自分を守るように胸と股間を隠している。
(……馬鹿。俺が狙ってるわけじゃねぇよ!)
途端に馬鹿らしくなり、席に戻りながらため息をついた。
(まあ、相談してくる気配もないし。悩んでる風でもないから、もう少し様子を見るか)
まだこちらにビクビクしながら隣の席に腰かける新谷を睨む。
(それにもし、相思相愛だとしたら、要らぬおせっかいだろうしな)
口端が引くつく。
(……アホらし!)
パソコンを起動させると、横で新谷も電源を入れた。
だが画面を見つめたまま、パスワードも押さずにボーっとしている。
「どうした。融資相談うまくいかなかったのか?」
「あ、いえ。順調です。仮見積もりと仮の間取り、銀行が閉まる前に持ってかなきゃいけなくて……」
「じゃあ大急ぎで作れよ。この間、伊勢沢さんのでやったばかりだろ」
「あ、はい。そうなんですけど……」
言いながら駐車場を見ている。
「……紫雨さん、大丈夫ですかね」
「は?」
(何の心配だ、何の……)
篠崎は目を細めた。
「曲がりなりにも副長であるリーダーの心配をするなんざ、お前も偉くなったもんだな」
嫌味たっぷりに言うと、新谷は焦って振り返った。
「ち、違いますよ。彼の営業力はすごいので、そこは何も心配してないんですけど」
いよいよ面白くない。
「………“彼の”?随分仲良しになったじゃねえか」
「ああ!もう違うんですって!」
殺気の漏れだす篠崎から距離を取ろうと新谷が椅子ごと後ろに後退していく。
そのキャスターを踏んづけ、動けないようにしてから距離を詰める。
「おい」
たちまち新谷の顔が真っ赤に染まる。
「……2週間だぞ?」
「は、はい?」
「たったの2週間でお前………」
そこまで言って思わず自らの口を塞ぐ。
(俺は、今、何を言おうとしたんだ………?)
「…………?」
言葉を続けない篠崎を新谷はおそるおそる上目遣いに見ると、やっと口を開いた。
「紫雨リーダーのあのお客さん、ちょっと雰囲気が変だったので」
「……雰囲気?」
「はい。リーダーを見る目つきというか……」
新谷のキャスターから足を外しながら駐車場を見る。
客を乗せた紫雨のキャデラックは姿を消し、そこには赤いミニクーパーが1台、ふんぞり返って停まっていた。