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バックヤードで彼がまた店長に怒られている。店長の橋本凛はまだ三十代。本部期待の女性店長だ。でも従業員からの評判はあまりよくない。
失敗をなくしてほしいなら、怒るのでなく叱ればいいのにといつも思う。たぶん店長が彼を感情的に怒鳴りつけるのは、それを私たちに見せつけることによって、自分の立場が上だと主張したいのだ。
こういうのをなんて言うんだっけな? 大学の心理学の講義で習った気がする。その大学も二年生のときに中退してしまったから、そこで習ったこともみんな無駄になってしまったんだけどね。
毎日怒るきっかけは違っても、彼への説教の締めの言葉はいつも同じ。
「アルバイトだってお客様から見れば同じ店員なの! あたしが客で君みたいな店員に当たったら、絶対にお客様アンケートで名指しでクレームつけまくってると思うけどね!」
「すいません……」
彼はうつむいたまま今にも消え入りそうな声で謝罪する。彼のそんな姿も今まで何回見せられてきたか分からない。
彼の名前は勝又大智。大学四年生だけど、五月になった今もまだ就職先が決まっていない。こんな激安だけが売りの客層もあまりよくないスーパーでバイトしてるのはお金のためではなく、苦手なコミュニケーションスキルを磨くためと話していた。ここで働き始めてもう一年になるが、残念ながらあまりそれが磨かれたようには見えない。
「詩音さん、あの童貞今日は何やらかしたんですか? 大学生のくせにいつも怒られてて馬鹿みたい。しかも向いてないくせにこんな女ばっかの職場にしがみついて、何考えてるんだか。あいつ絶対下心ありますよね。きもっ」
小声で馴れ馴れしく話しかけてきたのは高校生アルバイトの川島莉子。口も性格も悪いけど、シングルマザーのお母さんのために掛け持ちでバイトを頑張っている。それは偉いなと思う。
私は高校生の頃は勉強しかしてなかった。恵まれた家庭だったと思う。家を出て大学も辞めると伝えたとき父にも母にも泣かれてしまった。それから年に二、三度向こうから私に会いに来る。私は相変わらずあの街に行く気になれない。
「うちのアニキがあいつとタメで、前からあいつ勉強できるだけの気持ち悪いやつだったって言ってました。中学のときは相当いじめられてたって。まあ、あれじゃいじめられてもしょうがないですよね?」
そうなのか? 私はいじめられたことはないけど、大学生の頃、○○されてもしょうがないという言い方ならしょっちゅうされた。たいていは陰口だったけど、ときには面と向かって言われることもあった。
「ヤリ捨てされてもしょうがない女って便利でいいよな」
「あんたさ、頼まれたらイヤって言えないなら、売春婦扱いされてもしょうがないよね?」
売春婦の方がマシだったかもしれない。だって私はそれでお金をもらったことなんてなかったもの。いや、お金なんてもらったら私の心はとっくに壊れていたに違いない。共通所有物として扱われながらずっと彼らとの関係を断ち切れなかったのは、男たちが言い寄ってくるのは彼ら全員が私を本気で愛しているからで、たとえ私が誰かとセックスしたところで彼らが私に求めているものは心のつながりなのだから問題ない、という何の根拠もない思い込みが心の中にあったからだ。
私が売春婦扱いされたのも、大智君がいじめられるのも、しょうがないで済まされるのか? 彼らは私の心のさびしさに付け込んだだけだ。大智君の場合も、確かに少し覚えが遅いし行動に俊敏さが欠けるけど、だからといってそれはいじめてもいい理由にはならないはずだ。
いくら心の中で反論しても莉子ちゃんの心には届かない。莉子ちゃんはさらに何やらごちゃごちゃ彼の悪口を言っていたが、私はそれを全部聞き流した。相手の話を聞き流す技術。その技術を大学生の頃に身に着けていれば、私は大学を辞めることもなかったし、この街に流れてくることもなかっただろう。
五月の後半で比較的来客数も落ち着いてきた頃の金曜日ということで、今夜は職場の有志の飲み会がある。夜八時から居酒屋で。人間関係は最低限でと決めているから出る気はなかったけど、
「あたし店長に言われて幹事やってるんです。出る人少ないと幹事失格って店長に怒られちゃいます!」
と莉子ちゃんに泣きつかれて仕方なく出ることにした。あの店長も来るのならなおさら出たくないというのが正直なところだ。スタートが遅めなのは店長の退勤時間に合わせたのかもしれない。それにしても飲み会の幹事を高校生にやらせるのは少々問題なんじゃないですかね、店長?
今日の私の勤務は夜六時まで。これから二時間どうやって時間をつぶそうかと思ってると、同じく勤務を終えたばかりの大智君と松江沙羅も休憩室に入ってきた。
「松江さん、西木さん、おつかれさまです」
「大智君、ごくろうさま」
下の名前で呼ぶのは馴れ馴れしい気もするけど、みんな彼を名前で呼ぶから仕方なく私もそうしている。
私の名前は西木詩音。大智君だけは西木さんと呼ぶけど、ほかのみんなには詩音さんと呼ばれている。
沙羅さんは誰とも挨拶しない。仕事中はニコニコしてるけどそれはあくまで営業用スマイル。仕事中以外の場で挨拶しても挨拶が返ってくることはほとんどない。やはり莉子ちゃんに泣きつかれたからか、沙羅さんも今夜の飲み会に出るらしい。
沙羅さんは私と同い年。でも結婚して子どもも二人いる。こういう普通の人生を送ってる人と比べると私は負け犬なんだなって再認識させられる。それでいいと決めたはずなのに、こんなはずじゃなかったと今だって胸が張り裂けそうになってるんだ!
「今日も店長にめちゃくちゃ怒られてたね」
「僕が悪いんで仕方ないです」
「あんまり気にしない方がいいよ」
「ありがとうございます。心配かけてすいません」
仕事はできないけど、礼儀正しいいい子だ。ときどきこの子といると、できの悪い弟を持った姉のような気分になる。
「今日はちょうど飲み会があるし、いっぱい飲んで嫌なことはみんな忘れるといいよ」
「飲み会ですか……?」
「あ、ごめん。大智君は欠席だった?」
「いえ、飲み会自体あったの知らなくて……」
幹事の莉子ちゃんが大智君に声をかけなかったらしい。知らなかったとはいえ、大智君を悲しい気持ちにさせてしまった。どうすればいい?
「あ、沙羅さん、詩音さん、おつかれっす」
ちょうどそこへ当の莉子ちゃんも休憩室に入ってきた。大智君のことを確認した方がいいのだろうか? いや確認するまでもないか。目の前に大智君もいるのに、挨拶に大智君の名前だけ省いたのはわざとだろう。
「あんた、今日の飲み会の幹事だよね。大智君、聞いてないってよ」
一瞬、私の心の声が漏れたのかと思ったが、そうではなく沙羅さんが仕事中でもないのに珍しく口を開いたのだった。
「あっ、忘れてましたあ! ど…大智さん、これから飲み会やるんですけど来ますか? 急に言われても困りますよね。今日は不参加ということでいいっすか?」
莉子ちゃんは明るく繕うが、沙羅さんは追及の手を緩めない。
「あんたさ、忘れてたんなら最初に謝りなよ。でも忘れてたんじゃないだろ。わざとだろ。なんで?」
「ぶっちゃけ、ど…大智さんがいない方が盛り上がるかな、みたいな?」
いちいち童貞と呼びそうになってるのもわざとだろうか? よく分からないが、それがさらに沙羅さんの怒りに火をつけてるのは確かだ。
「あんた見てるとさ、昔、中学で同じクラスの緘黙の子をいじめてた男子たちを思い出してムカつくんだよね。別に童貞でも緘黙でも何でもいいだろ? それともあんた人を馬鹿にできるほど偉いの? あんたなんて頭空っぽのうるせえだけのガキにしか見えないんだけど!」
「すいません。あたし、なんでそんなに沙羅さんを怒らしたのかよく分からないんですけど。ど…大智さんが仕事できなくて、男としての魅力も一つもなくて、好きになってくれる女なんて一人もいないに決まってるクズなのは間違いないじゃないですか! 沙羅さんが結婚してお子さんもいることは知ってますけど、もし今沙羅さんが独身だったら、ど…大智さんとつきあいたいと思いますか?」
沙羅さんはその問いに答えなかった。莉子ちゃんの言葉の違う部分でスイッチが入ってしまったせいだ。
「大智君がクズ? 本当のクズがどんなもんかも知らないくせに適当なこと言うなっての!」
「じゃあ、本当のクズってどんな人のこと言うんですか?」
「女をボコボコにしたり中絶させたりした男が知り合いにいたんだけどね――」
「確かにそんな男はクズですね」
「彼氏がほしいって言ってた処女の子にその男を紹介したあたしみたいなやつを本当のクズって言うんだ。覚えとけ!」
莉子ちゃんはもう何も言い返せなかった。沙羅さんの勝ち。いや、沙羅さんも莉子ちゃんに勝ったってうれしくもなんともないんだろうけどね。
それより、沙羅さんに負けた莉子ちゃんなんかよりよっぽどかわいそうなのは大智君。五歳も年下の女子高生に、男としての魅力が一つもないとか、好きになってくれる女なんて一人もいないに決まってるとか暴言を吐かれても、その部分に関してはまだ誰からもそれは間違いだって言ってもらえていない。
だから私が、それは間違いだって教えてあげることにした。
「大智君、莉子ちゃんの言ったこと全然気にしなくていいからね。私は大智君に魅力がないなんて思わない。私が二十歳のときに出会った人が大智君みたいな人だったらよかったのにって本気で思うもん。それならきっと大学を中退しなくてもよかったし、あの街から逃げ出す必要もなかった。莉子ちゃんの言う男の魅力って、カッコいいとか友達が多いとか女の扱いに慣れてるとか、たぶんそういうことを言ってるんだと思うけど、そんなものにはなんの価値もないって気がついたときはもう手遅れだった。不器用でもいつも隣にいて私を守ってくれる。大智君は私にはそういう人に見える。私は間違った人を愛してしまったせいで、道を踏み外してしまった。結婚どころかもう二度と人を好きになることもないと思う。あのとき出会った相手が大智君のような人だったなら、私は沙羅さんみたいに結婚できて出産もできて今頃何人も子どもを育てていたのかもしれないなって、ときどき心の中でため息をついてるんだ」
私がそう言うと沙羅さんまで絶句して、なんて答えていいか分からなくなったようだ。ということは莉子ちゃんに勝った沙羅さんに勝ったわけだから、一番勝ったのは私?
分かってる。人生で負けてる以上、ちょっと口で勝ったって何の意味もないってことくらい――
「飲もう!」
沙羅さんが大智君と私の肩をがっしりとつかんだ。
「飲み会で?」
「そんなもんキャンセル。三人で!」
沙羅さんは二人分のキャンセル料と言って莉子ちゃんに一万円を手渡した。
「いいお店知ってるんだ。きっと喜んでもらえると思う」
大智君と私をわくわくさせて、沙羅さんは颯爽と私たちを休憩所から連れ出した。
沙羅さんが連れて行ってくれたのは、カウンターとテーブル一つだけの小さなバーだった。ロマンスグレーという単語のよく似合うマスターが一人でやってるお店。私たち三人はカウンターに並んで座った。なぜか私が真ん中。でもそれは沙羅さんが考えてそうしたことだった。
秘密基地のようないい雰囲気のお店だった。いいお店知ってるんですねって沙羅さんに声をかけたら、マスターは沙羅さんのご主人だった。沙羅さんよりちょうど二十歳年上(!)の四十七歳で、しかもバツイチで前の奥さんとのあいだにも子どもがいた。沙羅さんがスーパーで働いている間、二人の子どもは同居してるご主人のお母さんに預けてるそうだ。
「沙羅さんのご主人にも会えたし、こっちに来てよかった」
「そう言ってもらえるとうれしいな。今夜のお酒と料理は全部あたしのおごりでいいよ。どんどん飲んで」
とりあえず乾杯したけど、こんなお店来るの久しぶりすぎて戸惑ってしまう。それに七年前、私をこういうお店に何度か連れてってくれたのはかつて私が処女を捧げた男だった。
私が消えた七年のあいだにあの男は何事もなかったように私の知らない女と結婚して、かわいい奥さんと楽しく子育てなんかしていることだろう。私はこの七年、恋どころか感情さえ捨ててさまよってきたというのに――
「西木さん、大丈夫ですか?」
私を心配してくれたのは沙羅さんじゃなくて大智君だった。鈍そうな大智君に気づかれるくらいだから相当ひどい顔をしてるのだろう。
「詩音さん、大学中退だったの? あたしは高校中退。三人の中でドロップアウトしてない勝ち組は大智君だけだね」
沙羅さんとしては大智君を褒めたつもりだったが、大智君から見れば自分だけのけ者だと言われたみたいで嫌だったようだ。
「莉子ちゃんが言ってたとおり僕は中学でひどいいじめに遭っていて、自殺未遂して一晩意識が戻らなかったことがあります」
また重い話だ。沙羅さんと私は思わず顔を見合わせた。
「もう少しで人生をドロップアウトするところでした。松江さんと西木さんがドロップアウトした仲間というなら僕もそうです」
そうなんだろうか? なんか違う気もするけど……。まあ本人がそうだと言ってるんだから、そうだということにしておこう。
「一度死にかけて僕は怖いものがなくなりました。死ぬ気で勉強を頑張って、高校も大学も希望通りの学校に入学することができました。いつのまにかひどいいじめもなくなりました。今は莉子ちゃんに童貞呼ばわりされるのが唯一のいじめかな。実際その通りだからずっと何も言い返せなかったですけど、さっき松江さんに別に童貞でもいいだろってかばってもらえて本当にうれしかったです」
「飲もう!」
沙羅さんがまた大智君のグラスにお酒をついでいる。沙羅さんの〈飲もう!〉は励ましたいときに出る言葉なんだなと今さらながらよく分かった。
「大智君、童貞ということは今まで恋人がいたことは?」
「ないです」
「恋人はほしい?」
「ほしいです」
「童貞こじらせた男に多いけど処女じゃなきゃ嫌とか、そういう特殊なこだわりはある?」
「ないです。僕は一度死にかけたんです。生き死にに比べたらどんなことだって取るに足らないことだと思います。もちろん僕の恋人になったあとは絶対に浮気してほしくないですけど」
「五歳年上でもいい?」
「年上の女の人に甘えてみるのも楽しそうですね」
ちょ! この話の流れは――
「じゃあ詩音さんとつきあいなよ!」
今まで掛け合いのようにぽんぽん会話が続いていたのが急に止まった。そりゃそうだよね。処女かどうかこだわらないというのは、過去の男関係のせいで住んでた街を捨て大学も中退したようなそんな訳あり女でもいいと言ってるわけじゃないんだから。
そうしてほしいって私から頼んだわけでもないのに勝手に私の名前を出して恥をかかせて! さすがに沙羅さんに抗議しなければと思ったそのとき――
「僕は西木さんとぜひおつきあいしたいです。僕は不器用だけど、いつも隣にいて彼女を守ってあげたいと思います」
大智君はさっき休憩所で私が言った言葉を正確に覚えていてくれた。私と? おつきあいしたい? そんなのは私の過去を知らないから言えるセリフでしかないのに――
沙羅さんが今度は私を質問攻めにした。
「大智君が詩音さんとつきあいたいって。いや?」
「そんなことは……」
「詩音さん、最後に恋をしたのはいつ?」
「七年前」
「セックスも?」
「七年してない」
「過去に何があったか知らないけど、そんなに思いつめなくてもいいんじゃないかな?」
「私はもう傷つきたくない!」
「大智君があなたを傷つけると思う?」
「思わない……」
「〈二十歳のときに出会った人が大智君のような人ならよかったのに〉ってさっき言ってたけど、もともと詩音さんの心の中では〈のような人〉というフレーズはついてなかったんじゃないの?」
「そうかも……」
「じゃあ、大智君と同じように、詩音さんも自分の口で伝えなきゃね!」
一瞬なんのことか分からなかったけど、大智君の真剣な眼差しを見て、もう恋はしないというかつての決意を、私は心の外へ放り出した。
でもこんな簡単に人生を変える決断を下していいものだろうか? 確かに大智君なら私を傷つけないだろうし、いつも隣にいて私を守ってくれるという彼の言葉に嘘もないだろう。彼を信じてまた光を求めるか、これまで通りすべてを拒絶して暗闇をさまよい続けるか――
不意に恐怖に駆られた私の口から、光を求める言葉がこぼれ落ちていた。
「あの……。よろしくお願いします」
沙羅さんが三人で飲もうと私たちを誘ったのは、初めから私たちをくっつけるためだったのだろう。三人の中で私を真ん中に座らせたのも、きっと大智君と私を隣り合わせにするためだ。
「もうあたしはいなくていいよね。二人で外に出てくれば?」
私たちは口々にお礼の言葉を沙羅さんに述べて、沙羅さんとマスターの穏やかな笑顔に見送られてお店の外へ出た。
五月の気持ちいい夜風が後ろから優しく私たちの背中を押してくる。時間はちょうど向こうの飲み会が始まった頃。
「ここから西木さんの自宅まで歩いていくとどれくらいですか」
「三十分くらいかな」
「じゃあ今日はもう遅いから送って行きますよ」
「ありがとう」
いろいろ話したいこともあったし、途中タクシーが何台も通ったけどやり過ごし、私たちは夜の街をゆっくりと並んで歩いていった。
「なんか沙羅さんにうまく乗せられちゃったけど、あとで大智君が冷静になって、やっぱりこんな女は嫌だなって思い直したら、遠慮なくそう伝えてくれていいからね」
「なんでそんな悲しいことを言うんですか」
「だって私、二度と誰も好きにならないって二十歳のときに決めたと言ったけど、本当はそうじゃないんだ。私が好きにならないんじゃなくて、こんな私を好きになってくれる男の人なんてもう二度と現れないって思ってたんだ」
「僕は今だって冷静ですよ。僕は、過去にいろいろあって傷ついた西木さんを弱くてかわいそうな人だとは思いません。これ以上詩音さんが傷つかないように守りたいとは思いますけど、その気持ち以上に職場ではしっかり者の西木さんに恋人として甘えてみたいなっていう気持ちの方が強いです。ダメですか?」
「それは全然ダメじゃないけど……」
「西木さんの方こそ女子高生に童貞だって馬鹿にされてるような僕でいいんですか」
「そんなこと気にしないでって言ったよね。二十歳のときに出会った人が大智君のような人だったらってときどき思うことがあるって教えたけど、それはつまり私は以前から君を一人の男性として意識してたってことなんだと思う。もう君は私の彼氏。莉子ちゃんに限らず、私以外の女の言葉で一喜一憂してほしくないな」
「分かりました。僕はもう西木さん以外の女の人を見ません。だから西木さんも――」
「うん。大智君しか見ないって約束する」
ちょうど私の住むアパートの前に着いた。まだ別れたくないと思った。もう誰も愛さないという誓いを曲げて七年ぶりにできた恋人と話したいことはまだまだたくさんあった。
「ここの二階に住んでる。もしよかったらコーヒーでも飲んでいかない? もっと大智君のことを知りたいんだ」
「僕ももっと西木さんのことが知りたいです」
間取りが1Kで和室とキッチンだけの、単身者向けのシンプルな部屋。和室の広さは八畳。この部屋に決めるとき、同じ1Kでも和室のアパートと洋間のアパートとで迷ったけど、寝っ転がっても痛くないという、女としてそれはどうなの? という理由で和室のアパートにした。また彼氏ができると分かっていれば洋間の部屋にして、フローリングの上にベッドでも置けば少しはさまになったのに。
救いはものが少ないから散らかってるということがないこと。ただ、ものがなさすぎるから男の人から見ればまるで色気を感じないだろう。
「おばさんくさい部屋でごめんね」
「清潔感があっていいと思いますよ」
うまいフォローだと思う。一瞬、彼が童貞というのは嘘で、実は女扱いに慣れた男なんじゃないかと疑った。でも部屋に入るなりそわそわ落ち着かない彼を見て、女の部屋に入るのは初めてなんだなと微笑ましい気持ちになった。
明るい場所で彼の姿を改めてまじまじと眺めてみると、外見的にはとてもいい素材を持ってると思う。背は私より十センチは高い。痩せてはいないけど太ってもいない。目鼻立ちもいい。髪がスポーツ刈りなのはたぶん、セットするのが面倒だからかな。今着てるカジュアルシャツはいかにも量販店で売ってそうな安っぽいデザイン。しかも何年も前に買ったものなのか、かなりくたびれてる感じ。今は床に置かれてる彼がいつも背負ってるリュックサックもちょっと大きすぎて、見てくれ的にはアウトだ。でも今書いてきたどれもこれも、私が手を貸せばなんとかなるものばかりだ。
部屋の隅で体育座りをしている大智君にコーヒーを淹れて持っていった。
「西木さんの分は?」
「カップが一つしかないから」
「僕はのどが渇いてないから西木さんが飲んでください」
コーヒー飲んでいってと言って部屋に上がってもらったのに、私だけ飲んだらおかしな話だからそれは丁寧に辞退した。
私たちは畳の上で向かい合った。
「君の話を聞きたいな」
「僕の何を聞きたいというリクエストはありますか?」
「じゃあ夢とか……」
そう言ってから、自分が捨てたものを相手に求めるのはどうなの? と自分で自分にツッコミを入れて空しくなった。
中退する前、私は教育学部の学生だった。卒業したら小学校の教員になるつもりだった。大学を辞めたとき夢も捨てた。それ以来夢は私の人生とは無縁の存在となった――
「夢なら二つあります。一つは大学に入る前からの夢で、もう一つは今日できたての夢」
今日できたての方はやっぱり私がらみなんだろうな。照れくさいから古い方から教えてもらうことにした。
「僕は中学でいじめられてました。誰も助けてくれなくて、最後には自殺未遂まで起こしました。僕はこれから教師になって、いじめに苦しむ子どものために生涯をかけていじめに立ち向かうんだって決めて、大学では教育学部の学生になりました。思うよりずっと大変だろうけど、一度は死を覚悟した身、死ぬ気でぶつかってみるつもりです」
話を聞いて、大智君と私の共通点と相違点がはっきり見えた気がした。大学の学部が同じだったことなんか関係ない。
共通点は二人とも集団による残酷な悪意の標的にされたことだ。それから逃げたところまで同じ。彼は生きることから逃げ、私は戦うことから逃げた。
相違点は彼はあきらめず、私はあきらめたこと。彼には夢があり、私にはないこと。彼は戦っていて、私は戦ってないこと――
逃げてばかりの卑怯者のくせに、大智君をできの悪い弟のようだと心の中で笑っていた私はいったい何様だったのだろう?
「大智君が企業訪問とかしてる様子がなかったのは夏に教員採用試験を受けるからだったんだね」
「筆記試験はなんとかなると思うんですけど、面接がどうしても力が入りすぎて練習ではダメ出しばかりされてます」
「面接練習、私も協力していいかな?」
「西木さんが僕の恋人になってくれて、しかも夢の手助けまでしてくれるなんて、僕は幸せ者ですね」
「君の夢は私の夢だよ」
「うれしいな。西木さんと恋人になれて本当によかった」
もうダメだと思った。私の全身が君に抱かれたがっている。このまま君を帰すなんて絶対に嫌だ!
私が処女ではないことを君は知っている。処女ではないどころか、過去の性的な過ちのために住んでいた街から逃げ大学まで中退したことも知っている。
今さら清楚ぶる気はないけど、つきあうことになった初日にすべてを許して軽い女だと思われるのは嫌だった。
それなのに私を形作るすべての細胞が君を求めているかのように沸き立っている。これは性愛を拒絶した七年間の反動だろうか?
「大智君、何も言わずに今すぐ私を抱いてほしい」
私は大智君に長いキスをしてやがて顔を離した。なぜか君はカッと目を見開いている。
「もしかしてファーストキスだった?」
君は黙ってうなずいた。でも私も必死だった。
「この街に来てからの七年間、本当は寂しくて仕方なかった。突然怖くなって泣いてしまうこともあった。ほぼ毎日夜中に目が覚めて、そのまま眠れずに朝になってる。その繰り返し。たぶん私はもう限界だったんだと思う」
「西木さん……」
「七年前に私を抱いた男たちは、私を愛してなんていなかった。君が愛に満たされたセックスを私としてくれるなら、私は七年前の悪夢からやっと解放される気がするんだ」
大智君は私の望みを叶えようとしてくれた。畳の上に私を寝かせ、私の心の中に散らばった哀しみを取り除くように、丁寧に衣服を一枚一枚脱がせていった。最後の一枚が剥ぎ取られ、生まれたままの姿を君の目にさらしたとき、少しも恥ずかしいとは思わなかった。君に見られることで私の心と体の奥深くにある何かが浄化されていくような、そんな気持ちがした。
「今度は君が横になって」
君が私の衣服を脱がしたときのように、私も君の衣服を焦らすように一枚一枚脱がせていく。最後の一枚を残すばかりになったとき、脱がせなくても君が私に対して欲情してくれていることが分かってうれしかった。
最後の一枚を剥ぎ取り、私は七年ぶりに男性のそれと対面した。さんざん凝視したあとは指でつんつんしたり手の平で握ったりしたけど、君は私のなすがままに任せてくれた。
かつて私は四人の童貞の男の最初のセックスの相手になったことがある。うち二人のそれは初めのうち緊張のためか性交するのに十分な硬さを持っておらず、私が手と口を使って手助けしてなんとか挿入可能な状態にしたのを覚えている。
セックスどころかキスだって今日初めて経験したくらいの君ならきっとそのパターンかなと予想していたけど、君のそれはまるで恐ろしい凶器のように矛先を私に向けていた。
大きさだけならもっと大きなものを見たこともある。でも全体が赤黒く変色し、その中を太い血管が痛々しく浮き立つそれは、今まで見た中で一番危険で禍々しく見え、未知の威圧感を私に与えた。五歳も年上の、しかも汚れきった女の体を、これほどまでに求めてやまない君を愛しいと思った。
問題は避妊だった。もう二度と誰も愛さないと誓った私の部屋に避妊具が置いてあるわけがなかった。今までキスも未経験だった大智君がそれを持ち歩いてるとも思えなかったけど、驚いたことに彼は三回分の避妊具を持っていた。キスも未経験だったくせに、万一そういう状況になっても相手を傷つけないようにとそれを常に持ち歩く優しさはさすがだなと感心した。やんちゃな猫に鈴をつけるように、私はそれを彼の、理性で制御できない部分に装着した。
「私が上でいい?」
君が小さくうなずくのを確認してから、私は君の下腹部に跨り、そのまま徐々に腰を落としていった。私の肉体が七年ぶりに男の肉体を受け入れた瞬間だった。でもそれよりも愛し合う男と結ばれたという精神的な歓びの方がはるかに大きかった。
「下から突き上げて!」
「胸をさわって!」
「詩音って呼んで!」
「敬語を使わないで!」
君は全部言われたとおりやってくれた。
騎乗位でセックスしたのは、かつて私が処女を捧げた男に、経験の少ない男とのセックスは女が上になってリードした方が失敗が少ないと教えられたから。だからあの四人の童貞とも最初は騎乗位でセックスした。今回君とセックスするに当たってあの男のアドバイスに従うのは癪だったけど、どうしても失敗したくなかったからその通りにした。
あの四人の童貞との最初のセックスは一人として射精するまで五分ともたなかった。でも大智君は三十分以上私の、七年間使ってなかったその部分を激しく突き上げ続けた。
私たちは熱に浮かされたように互いの名を呼び続けた。君は最後に私の奥深くで大量の精液を避妊具の中に放出した。
私は力が抜けたように裸のまま畳に横たわり、まだ肩で息をしている。体の上には君がかけてくれた厚手のバスタオル。君の心配そうな顔に見下ろされながら、まるで大地を照らす太陽のようだと思った。
「セックスって、素晴らしい」
大智君がそうつぶやいたとき、とても嫌な気分になった。不快な気持ちが表情に出ないようにするのに苦労するくらい。
「君にそんなに感動してもらえて、私もうれしいよ」
「西木さん、僕の初めての相手になってくれてありがとう」
本当に心が純真なんだなと思った。こんなに心のきれいな人の恋人に、私みたいな汚れた女がなっていいのだろうか? と今さらながら不安にさせられたのが悔しくて、なんだか意地悪したくなってしまった。
「大智君、私はもう誰ともセックスしないと心に決めていたのを曲げて、この人で本当に最後だと思い直して君に抱かれた。だから私にとって君は最後の相手だけど、君にとって私は最初の相手でしかないんだね。ということは君は何年かして私の知らない女を抱きながら、僕の童貞を奪ってくれたあの人は今ごろどうしてるんだろうって私のことを思い出したりするのかな? ちょっと悲しいな」
「ご、ごめんなさい!」
反省の意味を込めてだろうか、あぐらをかいていた大智君が正座に座り直した。かわいそうに顔も真っ青になっている。さっきまで恐ろしい凶器と化して荒々しく私を貫いていたものも、今ではすっかり縮こまって生後数ヶ月の子猫のようにかわいくて微笑ましい。
「僕にとっても西木さんは最後の女性だと誓います!」
嘘でもうれしいと思った。私はすでに四人もの男の最初の女になっていた。だからそんなものに何の価値もないことはすでに知っている。
誰かの最後の女になりたい。いや、大智君の最後の女になりたい! 過去に十二人もの男たちに都合のいい女として扱われていた私がそう願うことがどれだけ図々しいことかということは百も承知だけど、今私が見られる唯一の夢だから、心の中でそう願うことくらいは許してほしい。
「大智君はさっき、セックスって素晴らしいとつぶやいた。その言い方も好きじゃない。だって私以外の女とするセックスも素晴らしいってことになるからね。私は君を好きになって君に抱かれて、君とのセックスは素晴らしいって思ったけど、それは君を愛してるから。もう二度と愛のないセックスなんてしたくないんだ」
「西木さん……」
「恋人になったんだから名前で呼んで」
「し、詩音さん……」
野獣のように私を抱いていた最中は詩音、詩音って呼び捨てにしていたくせに。まあ、そのギャップも悪くないけどね。
「僕はあなたを愛してる」
「それはまたセックスしたくなったっていうこと?」
「そういうわけじゃ……」
「したくないの?」
「したいです」
「じゃあしよ」
「でも今……」
「大丈夫」
正座している大智君の股に顔をうずめて、子猫のようにかわいらしくなったままのものを口に含んだ。
「私だけのものだからね」
「詩音さんだけのものです」
子猫は大人の猫になり、虎になり、そして狂暴なライオンに戻った。
「また私が上になる?」
大智君はうなずき自分から畳の上で仰向きになった。彼のそれはまた矛先を私に向けて、早く貫かせろと催促しているように見えた。避妊具をかぶせ、その上からふたたび腰を落としていく。
二回目だから大智君の動きはかなりスムーズになっていた。
「大智君、愛してる!」
私のその言葉は自然に口から出たものだ。
「詩音、僕も愛してる!」
君もそう返してくれた。幸せだなって思った瞬間、なぜか私が処女を捧げたあの男の顔がちらついて不快になった。というか私はいつになったら彼らを思い出さなくなるのだろう?
君は私の過去に触れようとしない。私はそれに甘え続けていいのだろうか? 触れてこないだけで本当は教えてほしいと思ってるのかもしれない。私が黙っていても、どこかからそれが君に伝わってしまうこともありえる。すべて打ち明けた方がいいのだろうか? いや、知られたら絶対に私たちの関係は終わる。
彼らのことがなくたって、私なんてただ年を食ってるだけの空っぽな人間でしかない。大学中退でその日暮らしのアルバイトの私に対して、君は今ちょっとバイト先で馬鹿にされてるだけで、来春大学を卒業すれば教師としての生きがいに満ちた安定した人生が待っている。
今まで激しく突き上げていた君の動きが止まる。射精する直前の少し照れた君の顔を見て、私は自分が空っぽな人間であることをしばし忘れた。
絶望的な気分になるくらい私たちは釣り合ってない。結局、幸せなのは今だけなんじゃないかと私が不安の渦の中にいることを、今まさに私の中に二回目の射精をしている君は知らない――
と思ったけど、私の不安定な状態に気がついたのか、射精したばかりの大智君に抱きしめられた。
「どうして泣いてるんですか?」
そう言われるまで、自分が涙を流してることに気がついていなかった。
「うれしいし後悔してるから」
「後悔?」
「もちろん君とこうなったことを後悔してるんじゃないよ。もっと早く君に告白していれば、もっと早くあの苦しみから解放されたのにっていう後悔」
「じゃあ震えてるのは?」
泣いてるだけじゃなく、私の体は震えているらしい。私の方が五歳年上で仕事も君よりずっとできるのに。いつのまにか母親に心配される幼児のような関係になってしまった。
「たぶん怖いから」
「怖い?」
「君は教師になるという夢に向かって全力で頑張ってる。夢も若さもひたむきさも、捨てたい過去以外に何も持ってない私はいつか君に捨てられちゃうんじゃないかって怖いんだ」
「捨てるなんて……」
「私、自分がこんなに涙もろくて弱い人間だなんて知らなかった」
優しい大智君は私の涙と震えが止まるまで、そのままずっと抱きしめていてくれた。
「今夜は泊まっていってもいいですか?」
唐突にそう言われたとき正直うれしかった。でも、大智君が実家で両親と暮らしていることは聞いている。帰してあげないと心配するだろう。
帰ってほしくない。でも私は精一杯の虚勢を張った。
「君のご両親が心配してるよ」
「両親よりも詩音さんの方が心配で……」
「私を子供扱いしないで! 私は七年間一人で生きてきたんだ。君なんかに心配されるほど弱くは――」
――あった。
虚勢は所詮虚勢でしかなく、私はまたボロボロと涙を流していた。
「ごめん。七年間誰にも頼らずに生きてきたのに、今は君が私のそばから一瞬でも離れてしまうと思うだけでダメみたい」
「謝らなくていいですよ」
大智君はすぐに実家に電話をかけた。
「今夜飲み会があって、今夜はバイト先の先輩のうちに泊めてもらうことになったから。――明日の朝に帰るね。うん、じゃあ」
ご両親をだますことになって申し訳ないなと思ったけど、よく考えたらどこにも嘘がなくて感心した。
今夜飲み会があったのは本当だ。大智君は誘われてないけど。バイト先の先輩のうちに泊まるというのも本当だ。ただし同性の先輩ではなく肉体関係を持った女の自宅だけど。
「ありがとう。とりあえずお風呂にしようか? お腹すいたなら簡単に何か作るよ」
「とりあえずまた抱きしめさせてください」
「いいけど、なんで?」
「まだ泣いてるから」
私は本当にダメだな。
もう誰も好きにならないと決めて七年間一人で生きてきた。死ぬまでそんなふうに生きていけると信じていた。
でもそれは間違いだった。私の渇ききった心と体は七年間ずっとぬくもりを求めていた。七年前に私を絶望させた偽りのぬくもりでなく、本物のぬくもりを。今、奇跡が起きてそれが手に入った。
そういうことだから涙が止まらないのも仕方ない気がするけど、大智君に泣き虫で弱い女だと思われてしまうのはちょっと悔しい。
泣き虫で弱くて何も持ってない年増女の私が、どうやって若くて将来性ある君の心を繋ぎ止めることができるだろう?
避妊をやめて妊娠したら責任を取らせる? いや、私は君に責任を取ってほしいわけじゃない。ただ愛してほしいだけだ。却下。
私が君よりアドバンテージあるのはセックスの経験値くらい。それなら私の体を武器にして君をメロメロにして私から離れられないように――
そこまで考えて情けない気分になった。思わず涙も止まっていた。それは七年前に私がやられたことじゃないの!
私は今明らかに君に依存している。私は依存できるものに依存せずにはいられない依存体質なのだ。抜け目ない彼らがそんな私の弱点を見逃してくれるわけがなく、私は七年前に十二人もの男たちの性欲のはけ口にされるまでに身を落とした。
どんなに威張っても冷たくしても今の私なら服従させられるのに、君はあくまで優しく接してくれた。お風呂に入りたいと言えば、いっしょに入ってくれた。ごはんを食べたいと言えば、食材をかき集めて野菜たっぷりの特製の玉子焼きを焼いてくれた。もう一度したいと言えば、肉体的にも精神的にも今までで一番の充足感を私に与えるセックスをしてくれた。
また汗をかいた私たちはいっしょにシャワーを浴びて、一つの布団でいっしょに寝た。その夜、私は少女の頃のように熟睡し、窓の外が明るくなるまで目を覚ますこともなかった。
なんだかすごくいい夢を見ていたような気がする。一人ぼっちで暗闇で震えていた私の手を取って明るい場所に導いてもらえたような。
「大智君……」
口から出た独り言に自分で恥ずかしくなった。どれだけ好きになってるんだろう? 要領が悪くて職場の全員から馬鹿にされてるような人なのに。七年ぶりの恋にのぼせ上がっているだけじゃないのか?
枕元の置き時計が午前八時を示している。大智君は寝ている私を起こさないようにもう帰ってしまったらしい。
今日の勤務は九時から。そろそろ起きないと遅刻になってしまう。
なんとなく体がだるいのは七年ぶりにセックスしたからだろうか。まるで現実感がない。私は本当に彼とセックスしたのだろうか?
そのときバスルームから出てくる大智君と目が合った。
「詩音さん、起きたんですね。目覚ましにシャワー浴びさせてもらいました」
急速に湧き上がる現実感。私は確かに君に恋してセックスもした。
君は全然変わらない。五歳の年齢差があるから仕方ないとはいえ、相変わらず敬語を使って私と話す。変わった点といえば、私の呼び方が〈西木さん〉から〈詩音さん〉に変わったことくらい。そんな君もセックスの最中だけは私を呼び捨てにする。しばらくはそのギャップを楽しむことにしよう。
一方、私の方は? つきあった初日からセックスさせたのもどうかと思うけど、それより七年ぶりに男に愛されて感極まって泣いてしまったのはいただけない。捨てられるのが怖いと泣き言を言ってしまったのはもっといただけない。今は一瞬でも離れたくないと駄々をこねたのはもっともっといただけない。
大智君にとっていくら私が初めての恋人だとしても、さすがに幻滅したんじゃないか? 私が彼の立場ならこんな情緒不安定で面倒くさい女は嫌だな、絶対に。
「じゃあ、僕は帰りますね。仕事頑張ってください」
「あれ、大智君、仕事は? あっ、君の場合は学校か」
「今日は土曜日だから学校はないし、バイトも今日は非番です」
私は昨日から口を開けば馬鹿なことばかり言ってるな。大智君があきれてないように見えるのが救いだ。
「ちょっと待って!」
押し入れの奥に置かれた小箱からそれを取り出して、大智君に手渡した。
「この部屋の合鍵。君は来たいときにここに来ていいんだ」
「うれしいです」
私たちは長い長いキスをして、そして別れた。君は自宅に戻り、私は部屋に残り、そこらじゅうに残る君がいた痕跡を探して、幸せを感じていた。