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『篠崎さん……』
あの声がする。
篠崎は途切れそうな気配を慎重に手繰り寄せるべく、薄く呼吸を繰り返した。
『篠崎さん……』
努力は功を奏し、その声は、先ほどよりもはっきりと聞こえた。
『待っててくれる?』
……ああ。
『いつまでも?』
……ああ。
……待ってるよ。
どこかで鳴いているカラスの声で篠崎は現実の世界に引きずり戻された。
見慣れた天井に小さく息を吐きながら手のひらで顔を軽く擦る。
昨夜、遅くまでの打ち合わせから帰り、なんとかシャワーを浴びたまではよかったが、そのままベッドに倒れこみ、カーテンも引かずに寝てしまったらしい。
いつもなら遮光カーテンが防いでくれるバルコニーからの初夏の陽射しが、これでもかと部屋へ差し込んでいる。
十畳の寝室に置かれたキングサイズのベッドの上でムクリと起き上がると、タイミングを見計らったように、傍らに置いてあったスマートフォンが震え出した。
『おはよう』
その女の声にため息を吐きながら前髪をかき上げる。
『今日、休みでしょ』
篠崎は、サイドテーブルに置いてある卓上カレンダーを目の端に入れながら相槌の代わりに気だるい唸り声を出した。
『夜、部屋に行ってもいい?』
条件反射で部屋を見回す。
それこそモデルハウスのように、無駄なものが一切ないマンションの一室。
家主が朝早くに出ていき、夜遅くに帰ってくるその部屋には、生活感の欠片もない代わりに、いつ誰を招いてもいいほどきれいに片付けられていた。
しかし……。
「今日はダメ。仕事」
途端に電話口の向こうが不機嫌になる。
『休みなのに?家、流れるわよ』
ハウスメーカーや住宅・不動産関係の会社が水曜日を定休にしているところが多いのは、それが「水に流れる」という縁起が悪い曜日として捉えているからだという。
その話を入社したばかりの篠崎から聞いたこの女は、大した話でもないのに「へえ」と妙に感心して頷いた。
それから十年近く、よく忘れないものだ。
篠崎はふっと息をつくと、長い脚をベッドから下ろし、肌触りの良いラグの上に着地させた。
「そのうち俺から返しに行くから、気長に待っとけよ。どうせ男物の弁当箱なんて俺以外に使わねぇだろ」
『そりゃそうだけど』
チャポンという湯音が聞こえてきた。また湯船に浸かりながら電話をしてきたらしい。
「……のぼせんなよ」
言いながら立ち上がると、リビングを抜けキッチンに移動した。
コーヒーメーカーに波佐見焼のマグカップを入れながら、壁時計を見る。
太陽をモチーフに作られた木製の時計で、洋室でも和室でも、リビングでも寝室でも、どこにでも調和し、目立ちはしないがあるだけでぐっと空間が引き締まる飽きの来ないデザインだ。
家の引き渡しの際に、篠崎がアイアンローズの傘立てと共に個人的にプレゼントしていて、顧客からの評判は悪くない。
マグカップから香ばしいフレグランスが立ち上ると、篠崎は殆ど使わないオープンキッチンに凭れた。
「おい、のんびりしてる時間あんのか。今日も仕事だろ?」
『ええ、残念ながらね』
言うと、湯船から立ち上がったらしい艶めかしい湯音が受話口から聞こえてきて、篠崎は苦笑した。
「頑張れよ。佳織」
言いながら通話を切る。
マグカップに唇をつけて、淹れたてのコーヒーを啜る。
久しぶりに夢に出てきた女の声を反芻しようとしたが、上書きされた佳織の声で、もう思い出すことはできなかった。