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眠れない夜が、定期的にやってくる。
ベッドに入っても寝つけず、やっとまどろんだかと思ったら、体が高い場所から落下するような感覚にびくっと大きく震えてはっと目が覚める。
決まって悪夢を見た時のように気持ちの悪い動悸がして、枕元の目覚まし時計を見ると三十分もたっていない。それからしばらくは目がさえて、またウトウトとまどろんで……。
それを繰り返しながら、ベッドの中でじっと朝になるのを待つ拷問のような夜。不眠が疲労になって、確実に体と心に蓄積していく。
専門の病院を受診して、カウンセリングも受けたし様々な種類の睡眠導入剤も試した。しかし、どれもまったくといっていいほど効果はない。
そして、おとといからまた不眠にさいなまれている。
疲れて眠たくて、寝たいのに眠れない。体が鉛のように重たくて、頭にモヤがかかったようななんともいえない鈍い頭痛に襲われる。
しかし、睡眠不足を理由に仕事を休むわけにはいかず、業務は間違いと滞りのないように淡々とこなさなければならない。眠れないことが、日々の疲れとストレスを増幅させて、体と心は限界に近づいていた。
実は、不眠を解消する方法を経験から一つだけ学んでいる。それは、男と寝ること。セックスのあとは、不眠の苦しみが嘘のようにぐっすり眠れる。
依存症とか、なにか病的な中毒なのかもしれない。そう本気で悩んだ時期もある。しかし、専門のカウンセラーによれば、不眠の時以外に性行為を求めたり自慰に耽溺したり、そういった異常がないからそれは否定的らしい。
心身の限界が近づくと、まともな思考を保つのが難しくなる。体調が悪くなる。感情をコントロールできなくなる。精神が、手からこぼれる砂漠の砂のようにさらさらとした粉になっていく恐怖にかられる。
どこかの国で戦時下に、「眠ることを極限まで禁じられた時、人はどうなるのか」といった極めて非人道的な人体実験が行われたそうだが、その被験者の想像を絶する苦痛が分かるような気さえする。
――助けて。お願い、眠らせて。
藁をもつかむ思いとは、まさにこのことだ。
今夜は、歓楽街の一角にある小洒落たショットバーで相手を探そうと思っていた。睡眠導入剤よりも効果のある男。それも、お互い名前も連絡先も知らず、一回きりで終わる関係がいい。
会話もそこそこにホテルへ行って、相手が先にシャワーを浴びる時もあればこちらが先の時もある。今夜は相手が先だった。
ただ、この不眠解消法にはルールがある。
一つ、相手の部屋には入らない。二つ、自分の根城に相手を入れない。三つ、日常の生活で関わりがある人とはしない。
今まで、このルールに違反したことは一度もない。それなのに、今夜はどうしてこうなっているのだろう。ここは相手のマンションの寝室で、よく見知った男にベッドの上で組み敷かれている。
「先生、やっぱりやめませんか?」
廣崎彩は、男の目をまっすぐに見すえて言った。思いっきりにらみつけているつもりなのに、悔しいかな、相手からはにこにこと嬉しそうな笑みばかりが返ってくる。
「彩さんのその鋭い目、すごく好き」
さらにくしゃっとほころんだ顔が、仔犬みたいにかわいい。
これは、彼が生まれ持った人徳の一つだと思う。もとから柔らかくて親しみやすい雰囲気だけれど、笑うとたちまち他人の警戒心を解いてしまう。なんとも不思議な天性の魅力だ。
いや、待って。
仔犬ってなに。
かわいいってなに。
わたしは一体、この状況でなにを考えているのだろうか。
彩は正気を保とうと、両手で顔を覆って首を横にふった。
「手が邪魔だな。縛っちゃおうかな」
「……縛る?」
もしかして、見かけによらずサディスト気質なの?
困惑している間に、男が馬乗りの格好で彩の骨盤を両膝でしっかりとはさむ。そして、身動きが取れない彩の両手首をブランド物の青いネクタイで一つに縛って満足そうに頷いた。
「これでよし」
「……よっ、よくありません! ほどいてください!」
彩は、自由を封じられた体をよじって必死に抵抗する。
しかし、相手は細身とはいえ身長一八〇センチ、今年二十五歳になる健康な男子だ。到底、華奢で非力な女性が力で敵うわけがない。
ベッドのスプリングが軽くきしんで、縛られた両手を簡単に頭の上で固定されてしまった。
「そうだよね。こんな面白くもなんともない縛り方じゃよくないよね。彩さん、ごめん。次までにいろいろな縛り方を習得しとくよ」
「そうじゃなくて……! 縛り方なんて習得しなくていいですから、その向上心は別で使ってください。それに、次ってなんですか?」
「いつもクールな彩さんしか見ないから、新鮮でいいね。こういうの」
話、通じず。
彩は、ごくりと生唾をのむ。動揺のあまりすっかり失念していた。藤崎仁寿が、超ポジティブで鋼鉄の心を持っている、規格外に手強い男だということを――。