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紫雨は目の前に並ぶ、今年入社した新入の2人を睨んだ。
1週間前に突如現れ、横柄な態度をとり、何かと睨んでくる他店のマネージャーに、2人は委縮しながら、篠崎が作った問題集を解いている。
ちらりと覗き込んでみると、住宅建築の歴史から、木軸工法、最近の2×4工法などの技術的問題、さらに資金計画から、光熱費計算、太陽光パネルの発電効率などの数字、さらには他メーカーの分析と平均坪単価、売りや攻め方、また他社がセゾンを批判した時の事例集など、多種多様な問題が並んでいる。
確かにこの問題集一冊をきちんと理解できれば、ベテランスタッフも舌を巻くほどの知識は身に付く。
あとは、人を引き付ける篠崎の話術と、お客様の幸せを一番に考える新谷の遺伝子がうまくこの二人に浸透すれば、きっと優秀な営業マンとしてすくすくと育っていくのだろう。
「―――けっ」
呟いた言葉に二人がビクッと肩を震わせる。
紫雨は打ち合わせ室の椅子に腕を駆け、足を乱暴に組んだ。
2時間前。
「紫雨さん、今日は新人教育をお願いします!」
新谷はニコニコと二人を紫雨に押し付けながら言った。
「夕方、俺が帰ってくるまででいいので、ぜひみっちりアプローチ練習を!」
「アプローチ練習?」
「はい!まだこの二人、受注貰ってないので、お願いします!」
入社半年も超えて、まだ1棟も売ってないのは確かに問題だ。
「なんで篠崎さんのもとで学んでるくせに、一棟も売れてねえの?」
紫雨は青い顔をした二人を睨んだ。
「えっと、それは―――篠崎さんだから、というか………」
新谷が言葉を濁す。
「厳しくて厳しくて…。知識も習得できてないうちは展示場出さないと言い、問題集をひたすらやっていたので」
紫雨は二人のデスクに置いてある問題集を手に取った。
「ナニコレ」
「篠崎さんが作ったんです」
新谷が微笑む。
「これを一冊まるまるクリアするのに時間がかかりまして…」
「へー」
パラパラ捲りながら紫雨は新谷を見つめた。
「よろしくお願いします!じゃあ、俺、入居宅訪問にお客様をお連れするので!」
言うと、新谷は慌ただし気にコートを羽織った。
「篠崎さんは?」
努めて自然に聞くと、新谷は振り返って口角を不自然に上げた。
「今日は一日、構造現場見学に資金相談に宿泊棟清掃らしくて、夕方まで戻ってきません。電話なら通じると思います。それでは!」
わざとらしく敬礼をして、慌てて去っていった。
「嘘つけ」
紫雨が呟いた言葉に、新人の二人はまた肩を震わせた。
紫雨は二人を二階のカメラが設置されてない方の打ち合わせルームに連れて行くと、そこに座らせた。
テーブルに問題集を置く。
「もうこれ、完璧?」
二人が目だけを見合わせる。
おそらく展示場デビューしてから数ヶ月、触ってもいないと思われるそれらを見て、自信なさげに項垂れる。
「これ、全部完璧に埋めて」
ますます二人の顔が色を失っていく。
「何の資料を見てもいいから」
言うと、紫雨を見上げる二人の顔に血色が戻った。
「でも一問でも間違えたら、ズブズブに犯すからね」
「………………」
おそらく若草あたりから、要らない知識を少しは入れられているのだろう二人は、紫雨から目をそらし、再び青ざめたのだった。
二人が必死にカタログを捲り、問題集を埋めているのを横目に、紫雨は立ち上がった。
窓から見える事務所の気配を伺う。
今日の日直は渡辺だ。
客が来れば。
渡辺さえ誤魔化せれば。
身体が空く。
「………」
篠崎が、新谷が、そして林が、何を隠しているのかはわからない。
しかし自分にはそれを知る権利も見届ける権利もあると思うのは、勝手だろうか。
それがもし紫雨に危険が及ばないようにだったとしても、これ以上紫雨を傷つけないためにであったとしても――。
(……俺は、お前たちが思うほど、か弱くねえんだよ)
せめてアイツに――林に、危険が及ばないことだけ確認出来たらーーー。
ただ、それだけ、見届けられたなら……。
ピンポーン。
紫雨は振り返った。
◇◇◇◇◇
林は段取りを確認すると、嘱託社員となった老輩三人組を見て微笑んだ。
「ばっちりです。どこからどう見ても、ハウスメーカーの営業には見えないですよ」
三人は顔を合わせ、複雑そうな顔で頭を掻いた。
「警察に任せればいいのに……」
それを飯川が睨みながら腕を組む。
「日本の法律や今までの判例を観ましたが、はたから見て紫雨さんとあの男は恋人だった。紫雨さんがいくら無理矢理だったと叫んだところでやっていたことを考えると、あの男が有利です。
百歩譲って、暴行や傷害で逮捕されたところで、痴情のもつれと暗に判断されたのでは、執行猶予付きの判決は免れません」
林が言うと、飯川はため息をついた。
「自業自得でしょー?変な男をとっかえひっかえ遊んでたあの人に非があるんじゃないのー?」
林は黙って飯川を見上げた。
「……なんだよ」
「飯川さん。俺が言える立場じゃないんですけど。接客名簿、見てますか?」
「展示場ごとの?」
飯川の眉間に皺が寄る。
「なんで?」
「見てもらうとわかります。ここ2ヶ月分くらい」
「…………」
飯川は自分のパソコンを覗き込むと、システムを開いて、新規接客名簿を開いた。
そこには顧客氏名と、地名までの住所、電話番号と、担当した営業スタッフの氏名が並んでいる。
「…………?」
気づきましたか?
林はその顔を見つめた。
「紫雨さんはマネージャーだから、バッター順も一番初めです。普通に考えれば、接客数は一番多いはず。
それなのに、一番多いのは、3番目のバッター順であるはずのあなたです。どうしてかわかりますか?」
「…………」
飯川が林を見上げる。
「俺はペナルティ期間なので、皆さんのお客様のお茶出しを担当してます。だからわかるんです。バッター順、紫雨さんが、自分の半分をあなたに譲っています。あなたにバレないように、自然に」
「……それって」
「今期の成績が下がってきているのを心配してるんだと思います。態度にも言葉にも出さないですけど」
「…………」
飯川が黙って視線をパソコンに戻す。
「協力してください。俺たちの不器用な上司のために」
沈黙が続く。
しかし飯川は顔を上げると、口の端を釣り上げた。
「本当だよ。ペナルティのお前に言われたくないね」
「すみません」
「上司の尻拭いが片付いたら、お前に足りないところ、立ち直れないほど指摘してやるから覚悟しとけよ」
林は微笑んだ。
「ご指導のほど、よろしくお願いします」
二人で笑ったところで、電話が鳴った。
八尾首展示場からだ。
林はスピーカーにして電話をとった。
「はい、天賀谷、林です」
「あ、林君?」
電話をかけてきたのは渡辺だった。
「はい、どうしましたか?」
『ごめん!ちゃんと紫雨さんの靴と車の鍵、隠しといたんだけどさ』
「…………」
嫌な予感がする。
『いなくなっちゃった、紫雨さん。展示場のスリッパのまま、事務所のメンバーに気づかれないように、チャイムが鳴らないように、和室から飛び出して、地盤調査車両に乗って――』
林は息を吸い込んだ。
なぜ勘づかれのだろう。
昨日の電話でも不自然な点はなかった。
新谷にも篠崎にも、今日だけは紫雨を八尾首に拘束するように頼んでおいたのに――。
「とりあえず、わかりました」
林は受話器を置いた。
戦いを前に緑茶を啜る老輩たちを見つめる。
「どうすんの?」
横で聞いていた飯川が林を見つめた。
「いや、今日を逃すと全員揃ってできる機会はもうないと思うので」
林は飯川を振り返った。
「このまま決行します。手筈通りにお願いします」
「ああ。わかった」
篠崎はディスプレイに表示されているデジタル時計を見ながら言った。
「俺はもうすぐ客宅に着くから。点検を行ってモニタリングをしても十分紫雨がこっちに到着するまでには間に合うと思うから。天賀谷周辺にいればいいんだろ?」
『すみません…』
電話口の渡辺はため息交じりに言った。
「しょうがねえよ接客中なら。誰も悪くない。気にすんな」
言うと篠崎はナビゲーションのマイクを切った。
「本当に手のかかる奴……」
呟きながらも内心驚いていた。
朝の新谷との会話を思い出す。
「でもそんなに心配しなくても、あいつ、自分に危険が迫ってるならまだしも、遠く離れた天賀谷で何かが起ころうとしてるのが分かったからと言って、心配で駆けつけるようなキャラじゃねぇと思うんだけど」
そうぼやいた篠崎に対して、新谷は唇をキュッと結んだ。
「おい、何か知ってるなら言ったほうがいいぞ」
その何かを封じ込めた頬を両手で左右につねる。
「こちとら毎晩欲求不満でストレスたまってんだぞ?」
「痛い痛い痛い痛い!!」
柔らかくどこまでも伸びそうな頬を引っ張ってると新谷の目じりに涙が浮かんだ。
「もう……!しょうがないじゃないですか!林さんとの約束なんだから!」
離してやると赤く痕が付いた頬をさすりながら新谷が睨む。
「……言えよ。なんで紫雨がわざわざ危険を冒してまで天賀谷に戻る可能性があるのか」
新谷はまだ頬を撫でながら篠崎を恨めしそうに睨んだ。
「これは、紫雨さんには絶対に言わないでくださいよ?」
「言わねえって」
篠崎も睨み返すと、新谷は観念したように言った。
「篠崎さん、気づいてます?紫雨さん、こっちに来てから、毎晩林さんに電話かけてるんですよ」
「林に?天賀谷にじゃなくて?」
「はい。林さんの携帯電話に直接、です」
意外だった。
確かに何の準備もなく仕事を放り出してきてしまったことに不安はあるのだろうが、直近の後輩である飯川や、元マネージャーである室井に確認もできる。
一番若い林に、しかも展示場ではなく携帯電話に連絡しているとは―――。
「多分、紫雨さん自身、意識してないと思います。
まるで修学旅行で親元を離れて寂しがる小学生のように、毎晩林さんの声を聞いてから寝てるんですよ」
言いながら新谷はまだ赤い頬で微笑んだ。
「……なんだ。林の方が一方的に追いかけてるわけでもないんだな……」
篠崎が言うと、新谷はますます目を細めて笑った。
「それって、何て言うかわかります?篠崎さん」
篠崎はグローブボックスを開けて、煙草を取り出すと、それに火を点け、窓を開けた。
「“相思相愛”ね」
8年間の紫雨の顔が浮かぶ。
そっけなく目を逸らし、近づくと逃げていく。
放っておくと、睨み上げて喧嘩を売ってきて、ちょっと認めてやれば、ムカつく言葉を返してくる。
「あいつを扱える奴がいるとはな……」
ふっと笑うと、さっさと点検を終わらせるべく、篠崎はアクセルを踏み込んだ。