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フランベルクの本邸に、微かな緊張感が漂い始めたのは数日後のことだった。
廊下を歩く使用人たちが、普段よりも小声で何かを話し合い、目が合うと慌てて視線を逸らす。
その異変に気づいたのは、朝の食事中のことだった。
「カイル様、おかわりをお持ちしますか?」
テーブルを片付けに来た侍女が、微かにぎこちない笑顔を浮かべている。
いつもなら気にならない些細な違和感に、俺は思わず首をかしげた。
「……いや、大丈夫。ありがとう」
侍女は深々と頭を下げると、急いで食器を下げていく。その背中に目を向けながら、胸の奥でざわざわとした不安が広がっていく。
普段は使用人たちがこんな風に俺を避けるような態度を取ることはない。
――何か、起きているのか?
そう思った数時間後に、俺は信じられないような話を耳にすることになる。
その日の昼下がり、庭の片隅で掃除をしている使用人たちの会話が漏れ聞こえた。
俺は木陰でリリウムと戯れていたが、ついその声に耳を傾けてしまう。
「聞いたか? カイル様の実家が、エヴァンス家を乗っ取るつもりだって話……」
「まさか……そんなこと、本気で言ってるのか?」
ひそひそとした声に、俺は全身が強張った。自分の名前が出た瞬間、心臓が跳ねたのを感じる。
「いや、確かな情報かどうかは分からないけど……でも、そういう噂が広まってるらしい」
「でも、カイル様ってそんな風に見えないけどな……」
「だからこそ、分からないんだろ? 貴族ってのは表向きと裏が違うものだし……」
二人の声は徐々に遠ざかっていく。俺はその場から動けなくなっていた。
ちょっと待て……たった数日でいったい何が起きているんだ……。
俺が動けないでいるとリリウムが、にゃあ、と鳴く。
「リリウム……」
そっとその柔らかい身体を撫でる。
実家と言えばエルステッド家だが……あの家で誰が狙うんだ?と考える。
何せ父をはじめエルステッドの人間は欲と言う欲が全て研究に向けられていて、世俗に疎い。俺の欲は恥ずかしながら結構な割合で……いや、やはり全てがレイに注がれていたので、父やその兄弟、そして兄のように学者のような見識はない。
父の興味は魔物の生態、兄の興味は植物の生態……まあ、フランベルクと言う領地には興味津々だが、それはそこにいる物への興味であって、恐らくは政治的な所以は一切ないだろう。
では母が?というとそれも薄い気がする。母は父の手伝いをするのが至上としているような人だ。
ただ、俺がこれをどう言っても「家族を庇っている」としか取られないだろう。
噂の出どころは一体……と思ったところで、あの笑顔を絶やさない胡散臭い顔が浮かんだ。
「……アラン……」
そもそもこの噂は元からあったようには思えない。
ここ最近の噂。
そして最近出入りするアラン。
時期などはぴったりとあっているようにも思える。
……レイに話すべきだろうか?
最近は以前が懐かしいくらいに素っ気ないレイ。でもそれはきっと忙しいだの何だのが理由ではあると思う。……というか思いたい。
そんな風に思っていたせいか、俺の視線は執務室の窓の方に向いていた。
そこの窓が、今日は珍しく開け放たれている。
その向こうには、レイがいつものように書類を読んでいる姿が見えた。
丁度いいかもしれない……話してみるか。
俺は窓の下へ近づいた。高さのあるそこからレイに話しかけようとしたその時だった。執務室の中から、聞き覚えのある声が漏れ聞こえてきた。
「カイル様のご実家が、エヴァンス家を狙っている……などという話、いささか馬鹿げていると思いますが」
俺は咄嗟に身を屈めて隠れる。心臓が一気に音を立て始めた。
「……確かに馬鹿げている。だが、この手の噂は無視するわけにはいかない」
レイの低い声が続く。その口調から、彼がこの噂を真剣に捉えているのが伝わってきた。
「領民や周辺貴族にまで話が広まっていると聞きます。対応を誤ると、カイル様のお立場に悪影響を及ぼすかもしれません」
使用人の声が重なり、さらに胸がざわつく。
――もうレイにまで……。
噂はすでに広く広まっているらしい。
それにしたってどうして「乗っ取る」なんて話になるんだ?
「……この噂、誰が流したものか突き止める必要がある」
レイの声が硬く響く。俺は思わず窓枠に手をかけたが、声をかけることができなかった。
その時、リリウムが足元で小さく鳴いた。
「あっ……」
俺の小さな声に気づいたのか、執務室の中の会話がぴたりと止まる。
「誰だ?」
レイの鋭い声が響き、俺は慌てて窓から離れた。
「……ごめん、リリウム!行くぞ!」
俺はリリウムを抱き上げ、その場から急いで離れた。
※
俺はリリウムを抱きしめながら、自室のベッドに座り込んだ。
胸の中で、ざわざわとした感情が音を立てる。
――また俺のせいで、レイに迷惑がかかる。
思わず頭を抱えた。俺はいつもこうだ。レイのために何かをしようと思っても、結果的に足を引っ張るだけ。
領南での一件だってそうだった。勝手に追いかけて、余計な危険を増やして……。
「俺、何やってんだよ……」
溜め息が漏れると、リリウムが喉を鳴らして俺の膝に顔を押し付けてきた。
「……ありがとう、リリウム」
リリウムの暖かさが、少しだけ俺の胸の中の重さを和らげてくれる。でも、それでも。
――アランがここに来てから、全てが変わった気がする。
俺の中に浮かんだその名前が、心をさらに乱していった。