家に帰ると、駐車場に黒塗りのレクサスが停まっていた。
―――帰りは明日のはずじゃ……。
蜂谷は眉間に皺を寄せながら、シャツをズボンの中に入れ、第一ボタンを留めて、ネクタイを締め直した。
「―――ただいま」
玄関ドアを開けると、小間使いの|佳乃《よしの》がどこからか現れて、
「お帰りなさいませ」
深々と一礼した。
「旦那様がお帰りです。今日は大広間でお食事を摂るということでしたので、7時半にご集合願います」
彼女は頭を上げないまま、言った。
「―――わかった」
言うと蜂谷は佳乃の脇を抜け、アイアン調の手すりにカーペットが敷き詰められたサーキュラー階段を上った。
2階の廊下に差し掛かったところで、手前のドアが開き弟の隆之介(りゅうのすけ)が姿を現した。
「おかえり。兄さん」
隆之介は言いながら薄く微笑んだ。
「――――」
視線だけ返す。
「父さん、本当は明日の便で帰る予定だったんだけど、日本の南方で発生した温帯低気圧が台風に変わって、伊豆諸島に上陸の恐れがあるっていうんで、慌てて帰ってきたんだって」
蜂谷は無視してその脇を通り過ぎようとした。
「―――たまたま今日は早くて良かったね?」
その瞬間、隆之介の低い声が響き、蜂谷は振り返った。
「いつもは結構遅いとか、夜中に帰ってきたこともあるとか、そういうことは言わないであげるね?」
隆之介は楽しそうに笑うと、鼻歌を口ずさみながら階段を下りていった。
階下では、母親の依子(よりこ)が足音を聞いたのか駆け付け、隆之介に何か話している。
と、もう中学3年生にもなる息子の頭を撫で、その胸に抱き着いた。
―――実の息子に……。気色悪……。
蜂谷はため息をつくと、今度こそ自室に向かって歩き出した。
◆◆◆◆◆
広間に行くと、テーブルには白いレースクロスが敷かれ、きらきらと光るトウモロコシや、いい具合に熟した夕張メロンまで、食卓は夏の瑞々しい野菜や果物を中心に、美しく彩られていた。
椅子が引かれ、膝にエプロンが敷かれた。
隣に座る隆之介が意味深な視線を投げかけてくる。
―――なんだこいつ。
視線をずらして斜め前を見ると、依子が遠慮なくこちらを睨んでくる。
とても食事をする気分ではなくなった蜂谷が、小さく息をついたところで、勇人が入ってきた。
小間使いやシェフたちが一斉に頭を垂れる。
勇人はそれに小刻みに頷くと、颯爽と彼らの前を通り過ぎた。
今年で44歳を数えるとは思えないほど、引き締まった長身が、身に着けている部屋着まで何か特別なものに見せている。
その歩き格好に依子が恥じらいもなくうっとりとため息をつく。
彼は蜂谷の正面の席に座り、こちらを見て、もう一度大きく頷いた。
「おかえりなさい。父さん」
蜂谷が言うと、勇人は満足したように微笑み、
「ただいま。圭人」
と腹に響くような声で言った。
食事は勇人がフォークをアスパラガスに刺した瞬間に始まった。
「学校はどうだ?圭人、隆之介」
勇人が長く細いアスパラガスを器用に口の中に入れながら問う。
「相変わらずですよ」
先に答えたのは隆之介だった。
「もう生徒会も交代になったので、あとは悠々と受験生を堪能します」
にこやかに笑った隆之介に、依子が眉を下げて微笑む。
「そうか。生徒会はもう交代か。お前が生徒会長になったと聞いて喜んだのが、つい昨日のようだが。月日が経つのは早いもんだな」
勇人が笑い、隆之介も、
「僕も同じです。あっという間の1年間でした」
と微笑んだ。
「でもお父様が、学生時代に生徒会長だったと聞いて、どうしてもなってみたかったので。やらせてもらえていろいろ勉強になりました」
その言葉に依子が大袈裟に頷く。
蜂谷は心の中で鼻で笑った。
ーーーそんな不純な動機でなった会長が引っ張る学校は可哀想だな。
まあうちの学園の会長も動機の不純さで言えば、他所のことを悪くは言えないがーーー。
蜂谷はプリプリの鶏肉が光るダッカルビを口に頬張りつつ、ため息をついた。
「圭人は―――」
と勇人の視線がこちらに向く。
「圭人は、最近どうだ?」
ーーーどうもなにも。
「俺の方は学校でのいろんな行事も終わって、そろそろ勉強に本腰モードかな」
仕方なく答えると、勇人はやけに真面目な顔をしながら赤ワインを口に含んだ。
「家庭教師の先生はどうだ?」
当たり前の質問が返ってくる。
「教え方が上手でわかりやすいよ」
ーーーその代わり死ぬほど退屈で無駄がないけど。
『週3回、各2時間。この時間は嫌でも私に献上してもらいます』
家庭教師の堤下は、2回目に訪れたときにそう言い放った。
『あなたは“宿題”というものを頼んでもしてくれないのもわかりましたし、授業もろくに聞いていないということがわかりましたので、私が来る以外の時間を、期待するのは止めました。
ですが私にはあなたの偏差値をセンター試験までに70に引き上げるというノルマがありますので、この週6時間を全力でやらせていただきます』
眉一つ動かさずにそう言った堤下の神経そうな顔を思い出して、下瞼が痙攣する。
「それならよかった」
勇人は微笑み、ミネストローネにスプーンを射し入れた。
「もうすぐ三校合同模試バトルもあるし、兄さんも気合の入り方が違うようですね」
隣から声が響いた。
勇人の手が停まる。
「………三校合同模試バトル?なんだそれは」
―――まずい…。
蜂谷は慌てて隆之介を振り返った。
「あれ、お父様はご存じなかったのですか?宮丘学園と松が岬北高校、それに城西高校を加えた三校で、毎年模試バトルをしているんですよ」
「へえ」
勇人は一度はスープに差し入れたスプーンを抜いて蜂谷に視線を戻した。
「いつあるんだ」
「―――来月、だよ」
しょうがなく答えると、隆之介が畳みかけるように言った。
「上位20名は表彰もされるんですよ。ぜひ兄さんには蜂谷グループの次期社長として、名前を轟かせていただきたいなぁ!」
――――こいつ……!
勇人は目を見開き、大きく頷くと、蜂谷を見つめた。
「上位20人目指して、頑張れよ、圭人!」
―――終わった。
蜂谷は小さく息を吸い込んだ。
隆之介が楽しそうに笑い、依子が愉快そうに肩を震わせる。
蜂谷はすっかり味を感じなくなったダッカルビを口の中に放り込み、ろくに噛みもしないで飲み込んだ。
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