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まだ夏、夏の、夏真っ盛り。ムツキの家は、ムツキの魔力を効率的に運用することで空調などが快適ではあるものの、娯楽が少ないという難点がある。
むしろ、この世界そのものが娯楽の少ない時代ともいえる。テレビはもちろんなく、本がようやく一般的になってきたものの、数も少ない。スポーツも数種類が生まれたくらいで活況とまではいえない。
「いい感じだ。いい感じのスローライフだな」
ムツキは誰にも聞こえないような小さな声でそう呟く。特にこの日は誰かが出かける予定もなく、妖精たちの家事の手も足りているために家事の手伝いもなく、なんとなくみんながリビングでだらっと過ごしていた。
本を読む者、筋トレをする者、お喋りをする者、ただひたすら惰眠を貪る者など、それぞれがバラバラに好き勝手にしている。強いて言えば、本を読むムツキの隣を順繰りに交代して、スキンシップを取っているくらいの連携くらいしかない。
「うー、せっかくだから、みんなで何かしたい!」
ユウがしばらくクーを撫でていたにも関わらず、突如、そういうことを言い出すものだから、ムツキは持っていた本を手から落としてしまう。他の全員も動きが止まり、ユウの方を見ている。
クーとは、碧色の毛並みをした長毛種の犬であり、ケットと同様に人語を理解できる上位の妖精だ。犬の姿をした妖精たちのリーダーであり、ケットとは旧知の中で親友である。彼はいつも笑っているような表情をしているが、特に何かが面白くて笑っているわけではない。彼は家の中だと大型犬くらいの大きさだが、象と同じくらいの大きさにはなれる。
「何かって、そんなこと言われてもな……。ほら、膝の上に来るか? 今、ちょうど空いたから」
ムツキが周りの顔色も見ながら、ユウが変なことを言い出さないうちに丸め込もうとした。しかし、ユウは頬をめいっぱいに膨らませながら首を横に振った。
「もー! それもいいんだけど、話を逸らさないでよー。みんなで何かしたいー!」
「何かと言われても……そうだな……みんなで……か……」
ムツキはダメかと諦め、何か簡単なことで済まないかと考えを張り巡らせる。だが、彼が今までに全員でしたことは、パーティーか、夜のアレくらいである。休日のお父さん以上にスローライフでのんびり過ごしたいはずの彼に、咄嗟に妙案など思い付くわけもない。
「そうだ! せっかくの暑い時期なんだし! 海なんてどう?」
ムツキが何かを思いつく前に、ユウが思いつき、そんな一言を全員に提案した。
「う、海?」
ムツキが思わず狼狽える。この家が世界樹の樹海の付近にあり、世界樹は大陸の中心に位置している。つまり、海は人族や魔人族の領土を超えて行かなければならない。彼は【テレポーテーション】という瞬間移動魔法を覚えているが、1度に何人も運ぶとなると少し手間が掛かる。あと正直なところ、彼はただただ家で本を読みながら、たまのモフモフに勤しんでいたかった。
「え、海?」
「海ですか?」
「おー、海!?」
「海?」
「海?」
リゥパとキルバギリー、メイリは「海へ行くのか」という意味での疑問形、サラフェとコイハは「そもそも海とは何だ」という意味での疑問形で綺麗に分かれた。ただし、リゥパは海の経験などなく、ただの伝聞推定の情報しかない。
「ふふっ、サラフェとコイハはピンときていないようだな。海というのはな、簡単に言えば、塩分を含んだ大きな湖、大量のしょっぱい水がある場所みたいなものだな。少し独特な臭いがするが、海で採れる魚は川や湖で採れる魚とも違って、これもまた美味しいぞ」
ナジュミネが何かを思い出したかのように嬉しそうに説明するので、リゥパは何か引っかかった。
「ふーん。ナジュミネ、やけに詳しいわね。いつ行ったの?」
「あぁ、この前だ。旦那様と2人きりの新婚旅こ……はっ!」
ナジュミネは言い切った後で口を塞ぐ。もちろん、それは遅すぎた。リゥパとメイリ、キルバギリーは立ち上がってムツキの方に駆け寄った。
「新婚旅行!? ムッちゃん、何よそれ、ずるいわよ! 私、新婚旅行なんて行ってないわよ! ナジュミネだけずるい! 贔屓は許さないわよ!」
「え、あ、そうだな。いや、待て待て、贔屓をしているわけじゃないぞ? ただタイミングが、だな」
ムツキはナジュミネを贔屓したわけではなく、ただリゥパが来てから、サラフェ、キルバギリー、コイハ、メイリが来るまでの期間が短く、新婚旅行のプランが立てられなかっただけだった。
そもそも、彼はナジュミネとの新婚旅行でさえ、周りのフォローをかなりもらいながらできたのであって、スローライフで好き勝手なことをしたい彼に計画性を求めてはいけないのである。
「ということは、姐さんしか行ってないの? えー、不公平だー! ダーリン、ひどいぞー! 僕たちの待遇の改善を求めるー!」
「た、待遇? 改善? え、これ、労組かなんかの嘆願か?」
ムツキは思わず前の世界の単語が飛び出る。もちろん彼にしか分からない。
「マスター、待遇改善を求めますー!」
「わ、分かった、分かったから。待遇の改善だな? そう、順番に行こう。約束だ。皆、絶対に連れて行くから。落ち着いてくれ」
ムツキはリゥパ、メイリ、キルバギリーに詰め寄られてタジタジになっており、助けを求めて、ナジュミネ、サラフェ、コイハを見回すも、誰も助け舟を出すことはできなかった。
もっとも、ナジュミネに至っては助け舟を出すだけ火に油を注ぐことになる。サラフェは今のところ興味がなくどちらとも言わず、コイハは自分を出せないだけで本来詰め寄る側になる。
「もー! 話が進まない! それはともかく、じゃあ決定ね! 【テレポーテーション】」
ムツキの周りでがやがやと騒がしくなり、それを見ていたユウが業を煮やして、全員の目の前で【テレポーテーション】を唱えた。