初めて好きになった人は、大学のサークルで知り合った同じ学部の二つ先輩だった。よく笑う人で、今でも彼を思い出すと笑顔ばかりが浮かんでくる。
地方の田舎町で生まれ育って、恋愛経験ゼロのまま高校を卒業した。声をはずませて彼氏の話をする同級生が羨ましくなかったといえば嘘になる。
恋愛への興味はもちろん、機会だってあったのに、恥ずかしいとか怖いとかネガティブな気持ちが先立って、どうしても一歩を踏み出せなかったのだ。だから、デートの帰りに先輩とそういう雰囲気になった時も、どうしていいか分からなくて怖いと拒否してしまった。
いまどき、オカタイ女なんて面倒なだけ。嫌われてしまうかもしれない。彼の反応が、とっても怖かったのを覚えている。しかし先輩は、大事にすると言ってキス以上は求めなかった。
素直に嬉しかった。愛されているのだと錯覚するには、十分過ぎる優しさだったから。
初体験は、先輩とつき合い始めてから一年と半年ちょっと過ぎたころ。お互いの誕生日でも二人の記念日でもなんでもない、土砂降りの平日だったような気がする。
話に聞いていたとおり、初めては気持ちいいより痛みのほうが強かった。けれど、相手は好きな人だもの。この痛みはいつか喜びに変わるはず。そう思っていたのに……。
「お前さ、声がよくないんだよな。お前とのセックス、なんかつまんねぇわ」
使用済みの避妊具を始末しながら先輩が投げつけたセックスの感想は、ものすごい衝撃で心を打ち砕く残酷の塊だった。新宿のラブホテルは赤色の室内灯が毒々しくて、先輩の笑顔はホラー映画に出てくる不気味なピエロみたいで。
好きな人と結ばれた喜びや幸福感はおろか、返す言葉すらない。どう形容すればいいのか分からない感情で心の中がぐちゃぐちゃになって、一人残されたホテルで涙が枯れるほど泣いた。
先輩とはそれっきり。もう二度とあんな惨めな思いをしたくないから、恋愛はしていない。
思えば、あれからだった。不眠に悩むようになったのは――。
東京の私立大学の工学部を卒業して、働きはじめたばかりの四月中旬。その日は土曜日だった。
医局の窓からは、春らしい青空と満開の明媚な桜並木が見える。今日は絶好の花見日和だと、朝のローカルニュースで言っていた。
「ふじさき、じん……、じゅ?」
「はい、藤崎仁寿です」
「……じんじゅさん」
彩は、吐息のように小さな声で医学生の名前を反芻しながら、机上の名簿に赤ボールペンでチェックを入れる。
彩が就職したのは、故郷の県庁所在地にある市中病院だ。他に就職先がなかったわけではない。東京で設計事務所に入って、七月に一級建築士の国家試験を受けるつもりでいた。
しかし、それを断念して故郷に戻ったのには理由がある。生来健康だった父親が仕事中に倒れて、救急車で運ばれたと母親から連絡があったからだ。
将来、父親が経営する設計事務所を継ぐために一生懸命仕事に打ち込もうと意気込んでいた矢先、大学卒業を間近にひかえた二月の出来事だった。
幸いにも大事には至らず、父親には後遺症などもない。しかし、しばらくは入院が必要な状態だという。一人娘の彩は、父親が心配で、内定をもらっていた設計事務所に事情を話し、慌ただしく故郷に引きあげたのだった。
実家は、県庁所在地から車で片道一時間ちょっとの距離にある。決して近くはないが、背に腹は代えられない。地方の、しかも春先に残っている就職口に贅沢は言えず、やっと採用してもらえたのがこの病院だった。
彩が配属されたのは、医局秘書課。勉強してきた建築とはまったく関係のない仕事で、右も左も分からず必死に業務を覚える毎日だ。
「めずらしい名前だって、よく言われます」
医学生が自分の名前について補足する。彩は顔をあげて、まじまじとその医学生を見た。少しクセのある短い黒髪。二重の目が、愛嬌たっぷりに黒く輝いている。薄い水色の襟付きのシャツにベージュのチノパンが彼の雰囲気と細身の長身にマッチしていて、まるで雑誌から出てきた読者モデルさんみたいだ。
臨床実習と卒業後の研修先の検討をかねて、わざわざ県を二つまたいで病院の見学に来てくれたらしい。彼はこの春、二年に進級したばかりの十九歳。まだ先なのに、就職活動についても考えている、意欲的な学生だと上司から聞いている。
「ひろさき、あやさん」
ふいに名前を呼ばれて驚く。彩は、自分の胸元にさがっている名札に一瞬目をくれた。名札には役職名と、氏名が漢字で印字されている。
「それほどめずらしい名前でありませんけど、よく間違われます」
彩がほほえむと、今度は医学生が驚いた顔をした。
「えっ?」
「わたしの名前、あやじゃなくていろって読むんです。今日は、遠いところお越しいただいてありがとうございます。よろしくお願いしますね、藤崎さん」
仁寿を医局内に案内しながら、手荷物を預かる。
この日は病棟の見学に加えて、循環器専門の若い医師が症例を提示して疾患について講義するというので、他にも数名の医学生が来ていた。しかし、県外から参加しているのは仁寿だけで、他は県下の学生ばかりだ。
「F大の藤崎さんです。藤崎さん、こちらがK大の竹内さんで……」
彩は、先に席についていた医学生たちに仁寿を紹介して、人数分のお茶とお菓子をテーブルに並べる。社交的な性格らしく、仁寿は初対面の学生たちとすぐに打ち解けた様子だった。
医局秘書課に在籍している事務員は四人だが、土曜日の午後に勤務するのは内二人だけ。今日は、上司と彩しかいない。ちょうど午前外来の診察を終えた年配の外科医が医局に戻って来たので、急いで熱い緑茶を用意する。
この仕事を長く続ける気はない。
就職する際に、勤務時間は朝の八時半から夕方五時半までだと説明を受けた。しかし、定時が存在したのは最初の一週間ほどで、実際には夜八時過ぎまで残業する日が多い。帰宅するのは九時過ぎ。
それから手抜き料理で夜ご飯を済ませて、お風呂に入って、洗濯して。翌日の仕事に差し支えないように、睡眠もちゃんと取らなくてはならない。就寝までのわずかな時間で、彩は建築士の試験に向けて勉強に励んだ。
医学生たちは、病棟を見学したあと、医局に戻って感想を言い合ったり、循環器の医師による講義を受けたり、充実した時間を過ごしているようだった。
医局の大きなスクリーンに冠動脈CTの3D画像が映し出されて、狭心症や虚血性心疾患について医師が易しい言葉で説明する。その間、彩は自分の席で月曜日に医大へ確認する事項を付箋に書いて仕事用のスケジュール帳に貼ったり、日報を作成したり、教えられたばかりの事務作業に勤しんだ。
「学生連れて飯食いに行こうと思うけど、廣崎さんもどう?」
眉間にしわを寄せて真剣な顔でパソコンの画面を見つめる彩に、循環器の医師が声をかける。はっとして時計を見ると、午後六時をまわっていた。医師が俺の奢りだと言うので、彩は行きますと笑顔で答える。
彩が急いで医局のテーブルや流しの片づけを始めると、医学生たちがみんなで手分けして手伝ってくれた。まだ未成年の学生がいるから、お酒は飲まずに食事と連絡先だけ交換して早々に家路につく。
「あの、廣崎さん」
お店を出て、駐車場へ向かおうとする彩を仁寿が呼び止める。
「どうかしました?」
「予約しているホテルの場所が分からなくて」
「あ、そうですね。藤崎さん、県外の人だから……。気が利かなくてごめんなさい。ホテルの名前を教えてください」
「えっと、確か」
仁寿が泊まるホテルは、駅から少し離れた、入り組んだ路地にあるビジネスホテルだった。
「ああ、ここ。帰り道の途中にあるホテルなので、送りましょうか?」
「本当ですか? 助かります」
仁寿を助手席に乗せて、夜の街道を走る。二人は、十分ちょっとの短いドライブの間に、お互いの自己紹介をした。どこの出身だとか両親の職業とか、そんな他愛もない内容だった。
ホテルの前に着いて車をおりる間際、仁寿がリュックサックから小さな箱を出して彩に手渡す。
「F大の近くにある洋菓子店のマカロンです。おやつにしようと思って買って来たんですけど、よろしければどうぞ。おいしいですよ」
「わぁ、ありがとうございます。このお店、有名ですよね。一度食べてみたいと思ってました。でもいいんですか? 藤崎さんのおやつがなくなっちゃう」
「気にしないでください。僕より廣崎さんに食べてもらうほうが、マカロンも嬉しいでしょうし。それに、僕は好きな時にいつでも買いに行けますから」
なんて雰囲気の柔らかい人なんだろう。彩は、仁寿のにっこりとした笑顔に好意的な感想を抱いて、同じようにほほえみ返した。
「また勉強会をする時は教えていただけませんか? 今日の話、すごく興味深くて面白かったので」
「分かりました。明日は、気をつけて帰ってくださいね」
「はい、ありがとうございました」
車をおりて、ドアを閉めた仁寿が手を振る。
家に帰りついてすぐ、スマートフォンのメッセージ受信音が鳴った。アプリを立ちあげてみると、仁寿からだった。
『次もおいしいお菓子を買って来ます』
彩はその年の七月、無事に一級建築士の試験に合格した。これで来年から建築士として働ける。期待を胸に、医局秘書の仕事を真面目にこなしながら、密かに転職先を探す。
しかし、どういう運命のいたずらか、上司が椎間板ヘルニアで戦線離脱したのを皮切りに、同僚の退職や妊娠出産などが続いて転職のタイミングを逃してしまった。
医局秘書は事務職だが、業務内容が特殊だから誰でもすぐにできる仕事ではない。特に人間関係が重要で、それなりの知識とコミュニケーション能力が必要とされるからだ。
まずは、院内の医師たちとの関係の構築から始まって、そのうち院内だけではなくて外部とのつながりもできてくる。業務の内容によっては、対外的な責任も負わなくてはならない専門的な仕事だ。
真面目で慎重な性格の彩は、仕事でのミスもほとんどない。二年半たつころには、すっかり医局秘書課の中心的存在になっていて、ますます仕事を投げ出せない立場になっていた。
その間にも、仁寿が夏休みや冬休みを利用して度々病院を訪ねてきた。研修医を獲得するために、医学生向けの広報するのも医局秘書課の大事な仕事だ。
他の医学生を交えて食事会をしたり、医師に頼んで勉強会を企画したり。彩と仁寿には顔を合わせる機会が多々あって、次第に「彩さん」「藤崎君」と呼び合うほど親睦を深めていった。