列車がようやく自身の最寄駅に着いた姿が見えた。京佳の姿を確認しようと、キョロキョロと見渡してみたが、見当たらない。列車が次を行ってしまった。
一度、自身の住む家に行き、軽く掃除してきたものだから、思っていたより遅くなってしまった。迎えにいくと言っていなかったから、もしかしたら入れ違いになっているかもしれない。そう思ったが、次に走ってきた列車が止まり、京佳とあの老女が降りてきたのをみて、ほっとした。
少し遠かったから走って、二人に挨拶をしようと思った。が、途端、老女が京佳の頬を引っ叩いた。
「いつまでもしけた顔してんじゃないよ! あんたみたいな醜女をもらってやると云ってくれたのだから、少しは愛想笑いでもしていなさい! こんな花のかんざしなんてつけて、今まで息を殺してきたのに、男が絡んだ途端、色気づいて……気持ち悪いわ」
驚いた。まさかあの老女が京佳に手を出すだなんて思ってもいなかった。周りに人がいなかったから、手を出したのだろうか。だとしても、なんてひどいことをするのだ。
(大方、あの婚約者が渡したんだろうね……安物だけど、結構上品なものを選ぶじゃない……あの人はかんざしなんてくれないのに、この子はもらえるなんて……)
「こんなかんざしなんかもらって、浮かれて、恥ずかしいったらありゃしないのよ」
京佳は膝をついて返してほしいと行動で懇願した。だが、老女はそれを嘲笑う様に、
「あんたはどこに行っても愛されないのよ。いい? 醜女のあんたをもらってくれる親切な男の為に生きなさい。息を殺して、感情を殺して、従順で献身的に、すべてのことに我慢して、口答えをしない、男を支える影となるのよ。あんたは愛されない。何をしても、努力しても愛してくれる人なんて、この世に一人もいないんだからね」
ふと、昔の言われたことを思い出した。
ーあなたはね、心の声が聞こえるから、誰にも愛してもらえないの。そのことを言ってしまえば、みんなあなたのことを気味悪がるからね。愛されていたいなら、理不尽なことに苦しくても耐えて笑っていなさい。
脳裏に浮かび上がった言葉を無視して、知成は走り出した。今度は、老女がかんざしを地面に投げつけ、踏もうとしていたのを京佳が手で守ろうとしたから、そんな京佳が見ていられなくて、耐えられなくて、悲しくなって仕方なかった。
「それが、娘を送り出す母親のすることですか」
京佳の手をどけて、代わりにかんざしを取る。そして京佳の前に庇うように立った。かんざしを取るついでに手を踏まれ、怪我をしてしまったが、そんなことはどうだってよかった。他所様の出来事に首を突っ込むことは、昔ならしようとしなかった。昔の様に誰かに見下され生きる、知成ではないのだと証明したかったのだ。
「ずいぶんとひどい親子喧嘩をなさるのですね。」
そう言うと、老女は焦った様に、先日の様な聡明な妻の様なふりをして、
「やだ、白河さん、おいでになさっていたのね。全く気がつかなくてごめんなさいね」
「いいえ、私が勝手に参りましたから。それにしても、夫人は我が子に対し、ずいぶんと派手な言葉を使うのですね。娘さん、すっかり怯えておりますよ。」
ぎり、と歯を食いしばる音がした。
「ただの親子喧嘩ですから、白河さんには関係のないことです。この子は覚えが悪いものですから、何度も言わないといけないのです。母が子を躾けるのは当然の義務でしょう?」
腹が立った。知成の頭の中にある過去の人たちみたいで、腹が立った。
「夫人、あなたは賭け事がよっぽどお好きみたいだ。」
顔色がぐっと変わった。聡明な妻ではなく、睨みをきかせた腐った人間がそこにはいた。
「夫人、いけませんよ。家のお金をくすねて、若い男に貢いでは。それを知ったら、旦那様はお怒りになるでしょうね。」
「なぜ、それを……お、お願い! 言わないで……」
老女は顔を真っ青にして、ふらつく。そして、真っ赤な顔をして、
「あんたには関係ないでしょう! 私たち親子の問題よ! あんたたちは一生私たちの敷地には入れないんだから! この子は私の子じゃないから、あんたは私の義理の息子じゃない」
「そちらの方が私としては都合がいいですね。私も、私の妻にひどいことをなさる人のそばにおいてはたまったものじゃありません。手続き等はこちらで済ませますので、夫人はお早めにご自宅へお帰りください。そして、今後、妻にひどい目に合わせようものでしたら、ね。」
知成は京佳の手を引き、駅から出ていく。老女の真っ赤に膨れ上がった怒り顔があまりにもおかしすぎて、笑いそうになるのをぐっと堪える。腕の中で京佳が少しばかり震えていた。汚れたかんざしを必死に抱きしめて震えていた。
「……怖がらせてしまって、すみません。見ていられなくて、つい出てきてしまいました。」
京佳は俯いたままだった。やってしまったか、やっぱり声が聞こえないとどうしたらいいのかわからない、など心で呟きながら、少しばかりの照れくささを覚えた。京佳のぎゅっと握り返した手が、力強く心許なかったことが、無性に嬉しくて、恥ずかしくて仕方なかった。こんなふうに、手を繋いだのは、たしか蝶子が知成を拾ってくれた時以来だったような気がする。
ー男はなあ、メソメソしないで、胸張って前を向いて歩いてるほうがよっぽどかっこいいんだよ。おまえの過去がどうであれ、過去に縛られて生きるなんて、かっこ悪い。これからは、あたしと一緒に未来を楽しんでいけばいいんだよ。
だなんて、五つしか変わらないのに、無性に大人びていてかっこよかった蝶子の姿を、知成はずっと、覚えている。
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