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瞼を擦っても擦っても視界がぼやける。
篠崎はチップを足したにしても多すぎる金額を運転手に渡してタクシーから降りると、カードキーでマンションのエントランスを開けた。
13階を押し、エレベーターの壁に凭れかかる。
無機質で上下運動しかしないはずのその箱が、今日は前後左右に揺れて感じる。
「クソ、あいつ。もう二度と一緒に飲まねぇ」
紫雨の心底馬鹿にしたような、中身まで見透かしたような、それでいて切実に何かを訴えてくるような妙な視線を思い出し、ひどく腹が立った。
(しかし、まあ……)
息を付いてオレンジ色の階数表示を眺める。
(あんぐらいおせっかいに首を突っ込んでくれる上司がいるなら、あいつも安心か)
一番の危険因子だったはずの男が、変われば変わるものだ。
そして彼を変えたのもまた、あいつの力であり、人柄なのだった。
(……変われなかったのは、俺だけだ)
ドアが開く。
篠崎は廊下を歩き出した。
『全国の家族のために何ができるかな、って考えて、それで、選んだんです』
あいつのように前を向いたり、
『もし、俺、クビになったとしても、あなたから家を買いたい……!』
心の底から素直になったり、
『何ですか!!!その元旦那は!!ファックですよ!ファック!』
他人のために本気で怒ったり、
『譲ってください。これからここで生きていきたい家族に。家族が幸せになるのを見届けたい母親に』
誰かのために頭を下げたり、
『死にゆく人には嘘はつけないなって』
人の心に寄り添ったり。
(もし俺に、そんなことが出来たなら、きっと……)
篠崎は顔を上げた。
そこには白い息を吐きながら、赤くかじかむ手を擦る、彼が立っていた。
「新谷……何でここに」
全身の血が湧き立ち、そう呟くのが精一杯だった。
「あ、違うんです!」
目を見開いた篠崎に、新谷は慌てて胸の前で両手を振った。
「あの、不法侵入とかじゃなくて、その………」
こくんと唾液を飲み込む音がこちらまで聞こえてくる。
「エントランスの入口で待ってたら、重い荷物を持ったお婆さんがいて、部屋まで運びますよって言って、そのまま中に入ってしまって……それで、どうやって出たらいいかわからずに、閉じ込められて……」
「……出るときなんて、鍵かかってないだろ」
「え?」
新谷は顔を赤くした。
「そうなんですか?」
「そーだよ。出口はいつでも開いてるんだ」
久しぶりに見た気がする。
彼が焦っているのを。
彼が赤くなるのを。
(お前はなんで、このタイミングで会いに来るんだよ……)
「それで、どうした。こんな遅くに」
沸き立つ感情を隠し、出来るだけ自然な口調で言いながら、コートのポケットを弄る。
「あの……俺、篠崎さんに、ちゃんと言ってなかったなと思って……」
取り出したカードキーで自室のロックを外す。
「何を」
視線を新谷に戻す。
すると、彼は傍らに置いてあった鞄から慌てて何かを取り出した。
「ご結婚、おめでとうございます」
「……………」
黒い紙袋に、金色の『LOUIS ROEDERER』という字が輝いている。
大きさからして、ペアのワイングラスだろうか。
そのブランドに似合わない若く幼い顔を見る。
「お前が選んだのか?」
「あ、俺は………」
新谷は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「どんなものがいいのかわからなかったので、その、紫雨リーダーに相談に乗ってもらって……」
「やっぱりな」
篠崎は笑いながら数歩近づき、新谷の正面に立った。
「あ、そうですよね」
プレゼントを受け取るにしては近すぎる距離に新谷が思わず、一歩後ろに下がる。
「じゃあ、婚約祝い、という……」
何かを感じて、少し上ずった声を篠崎は遮った。
(……そう。出口はいつでも開いていたんだ)
「新谷」
(……逃げなかったのは、お前だ)
「お前もまだ、結婚してないから」
逃げようとする腕を掴む。
「……問題ないだろ?」
「え……?あッ!!」
ドアを開き、その軽い体を中に引きずりこむと、後ろ手にドアを閉めた。
「あ……あの……んんっ!」
夜風ですっかり冷え切った身体を、シューズクロークに押し付け、少し屈んでその唇を奪う。
「ん……んぅ……」
逃げようとする顔を無理やり上に向かせる。
戸惑ってわずかに開いた口に舌を差し入れる。
「………んッ……」
吐息から漏れるアルコールの匂いに、新谷が気づく。
「……っ。篠崎さん……もしかして、酔っ払って、るんですか?」
荒くなった呼吸。新谷がやっとのことで言葉を発する。
真っ赤な顔で見上げ、瞳を潤ませる。
久々に見たその顔に、体中が痛むほどの暗く熱い欲望を覚える。
そう。
酔っている。
12月の気温でも冷めないほどに。
エレベーターが揺れていると錯覚するほどに。
それを言い訳にしてもいい。
それがあまりに幼いなら、
”婚姻前の最後のお遊び”と名前をつけてもいい。
そうでなければ、
”異動前の思い出作り”と割り切ってもいい。
何でもいいから……。
「……一度でいいから、お前を……」
シューズクロークに縋りつくように広げた両手の指に、自分の手を重ねる。