コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「新谷君、おはよう!」
事務所のドアを開けると、渡辺が歯磨きをしながら振り返った。
「おはようございます。打ち合わせですか?」
営業も設計も、客との打ち合わせ前は、家で歯を磨いたとしても、昼食後、歯を磨いた後でさえ、もう一度、歯磨きをする。
渡辺は頷きながらシンクに泡を吐き出した。
「そう。今日は、お客さんとカーテン屋さんで打ち合わせ」
「へえ。そんなところも同席するんですね」
「カーテン業者を紹介する責任があるからねー。もし失礼な対応があったり、無理に高いの勧められたら嫌じゃん?」
(本当に家一棟、丸ごと責任を負うんだな)
由樹は感心して頷いた。
「本当は同行して勉強させてあげたいけど、新谷君は今日、地盤調査だもんね」
「そうなんです」
「作業着も似合ってるね。ちょっと大きいけど」
「はは。やっぱり」
言いながら靴を脱ぎ自分のスリッパに履き替える。
「あれ、マネージャーは、お休みですか?」
片付いた篠崎のデスクを見ながら言うと、
「今日、引き渡し。設計長も猪尾もいないでしょ」
本当だ。いつも朝は電話かけに勤しんでいる猪尾も、無言でマウスを弄っている小松もいない。
(……なんとなく。なんとなく、だけど…)
由樹は、バッグを傍らに置くと、篠崎のデスクをもう一度見た。
(篠崎マネージャーに送り出してもらいたかったな)
相手が紫雨だからか。それとも初めて行く地盤調査に緊張しているのか。
なぜか腹の底から湧き上がってくるような不安感を、篠崎に笑い飛ばしてもらいたかったのに。
「まあ、室井マネージャー、優しいし、いろいろ学んでおいで?」
(ん?室井マネージャー?)
「教え方は丁寧だし、昔の人だから、建築についての基礎的なこと、わかってるしさ」
言いながら渡辺は蛇口から出した水を手ですくい、口に含んでいる。
「………あ、あの」
水を吐き出し、今度はウォッシャー液のような青色の洗浄液を手に取っている。
「室井マネージャーも来てくれるんですか?」
「え?」
渡辺はそれを口に含み、クチュクチュと口をゆすいだ後、ペッと吐き出した。
「何言ってんの新谷君。今日は室井マネージャーのお客様でしょ?」
「……あ、いえ、俺、紫雨リーダーのお客様だって聞いてたんですけど」
眉間に皺を寄せた渡辺の顔が曇る。
「それ、誰に聞いたの?」
「リーダー本人に、ですけど」
「『俺の客』だって言ってた?」
「あ、はい」
(あれ?確かに言ってた気がするけど)
「それ……まずいかも」
渡辺が言ったところで、ドアが開いた。
「何がまずいんだよ」
そこには、作業着を着て、やけに派手な紫色のベルトを締めた、紫雨が立っていた。
「お待たせ。出れる?新谷君」
「あ、はい」
慌ててバッグを持つ由樹を、渡辺が見下ろす。
「あ、新谷く……」
「新谷くーん、昼飯は?」
何か言おうとした渡辺を紫雨の間延びした声が遮る。
「あ、持ってきてないです」
「じゃあ、終わったら食おうぜ。多分午前中で作業は終わるからさ。奢ってやるよ」
「ありがとうございます」
意外と普通な紫雨の態度に安心しながら、由樹はげた箱からさきほど脱いだばかりの靴を出す。
「……紫雨さん」
渡辺が低い声を出した。
「なんだよ。ナベ。朝から怖い顔して」
紫雨は外階段を2段ほど降りたところから、台所のところで立ち尽くしている渡辺を見上げた。
「今日、俺たちは、室井マネージャーの現場だって聞いてたんですけど」
「……お前の勘違いだろ。俺の現場だよ」
渡辺が顔を引きつらせている。
「篠崎さんだって、あんたの現場だって知らないと思います」
「……あんたの?」
紫雨が鋭い目で渡辺を睨む。
「えらくなったなあ、ナベ。役職つくとすぐ調子乗るやつっているんだよなぁ」
「…………」
由樹はバックを抱えながら二人の視線の間に挟まれ、固まっていた。
「とにかく俺は、篠崎マネージャーに間違いなく『俺の現場です』って言ったから。嘘だと思うなら確認とってみな。そもそも室井マネージャーの現場だと良くて、俺のだと悪いなんて、業務的におかしいだろ」
渡辺の顔が赤く染まる。
「それはあんたが……!」
「あんたが?なんだよ、ナベ?」
「おはよーございまーす」
渡辺が唇を結んだところで、駐車場から仲田が歩いてきた。
「あら、紫雨君。どうしたの?」
渡辺を睨み上げてきた紫雨はコロッと表情を変え、仲田を見下ろした。
「仲田さん、おはようございます。今日もお美しいですね」
「あらー、またまた」
言いながら仲田が階段を上がる。
「あら、今日は敷地調査?」
話しかける仲田に道を譲ろうと由樹は一歩玄関を出た。
「いえ、地盤調査です」
言うと、彼女はにっこり笑った。
「そう。いってらっしゃい!今日は暑くなるらしいから、バテないようにね」
言いながら中に入り、後ろ手にドアを閉めてしまった。
「行くか。お客様も待ってるし」
紫雨も駐車場に向けて歩き出す。
「俺さ、昔、ちょっとナベといろいろあって」
紫雨が自嘲気味に頭を掻く。
「大人になんなきゃとは思うんだけど、ダメだな。あいつを見ると、つい頭に血が上っちまうよ」
「…………」
営業同士が仲が悪いのは、前の会社でも経験していた。
扱う商品が高額になればなるほど、嫉妬や僻みが生まれ、仲が悪くなるとビジネス本で読んだこともある。
多店舗でライバル同士なんだし、珍しいことではないのだろう。
気になりはしたが、篠崎も確か紫雨の現場であることは理解していた気がする。
(まさか地盤調査で何かあるなんてこと、ないよな。お客様もいるし、林さんだっているし。第一、外だし)
由樹は気を取り直すと、地盤調査用のハイエースバンに乗り込んだ紫雨の後に続いた。
「はい、今、この鍵は貫通したので、もう大工さん用の鍵は使えなくなりました。試してもらっていいですか?」
小松が客の妻のほうに鍵を渡す。
「あ、本当だ。魔法みたいだね」
鍵を確かめながら、嬉しそうに笑う。
「じゃあ、中にどうぞ」
精一杯愛想を振りまいている小松が中に案内する。
「わー、やっぱり綺麗。この色にしてよかったね」
妻がまた華やいだ声を出しながら、光沢を放っているピアノブラウンのシューズボックスを撫でた。
「まあ、いいね、シックで」
夫も満足そうに頷く。
「だから茶色にしてよかったでしょ」
背の高い夫を得意そうに見上げる妻を、微笑ましく眺めていると、
「マネージャー!見すぎです、見すぎ!」
猪尾が背伸びをして篠崎の耳元に耳打ちした。
「なんだ、お前。引き渡しの時のお客様の幸せそうな顔を見つめて何が悪い」
篠崎がその人懐こい顔を睨むと、動じずに猪尾は言った。
「だって、マネージャー、あの奥さん。もろタイプでしょ?」
言われて再度、彼女を見る。
明るいピンクブラウンのゆるく巻いた長髪。
白い肌に小さい顔。
少し垂れた目に、低い鼻。
厚めの下唇。
(まあ、確かに。嫌いじゃないけどな)
一生懸命夫を見上げているその顔を見て、ふっと笑みがこぼれる。
「篠崎しゃん」
振り返ると、客の一人娘で4歳になる実來(みく)がこちらを見上げていた。
「抱っこ」
言いながら小さな両手をこちらに伸ばしている。
今日はまだ5月だというのにやけに気温が高い。半そでから覗いた二の腕がプクプクと愛らしい。
篠崎は振り返ると、「よしきた」と言い、スーツの上着を脱いだ。
それを簡単にたたみ、上がり框の上に置く。
ゴトリ。
内ポケットに入っているスマートホンが、フローリングにぶつかり、鈍い音を立てた。
(暑かったし、ちょうどよかったな)
実來を抱き上げながら、おさげに結わえた頭を撫でる。
「篠崎さんて、意外に子供好きですよね」
猪尾が抱き上げられた実來の手をプニプニ触りながら言う。
「なんだ、意外にって」
「褒めてるんですって」
「どこがだよ」
工事課の社員としてめきめき成長するのに比例して、どんどん生意気になる部下を睨む。
「結婚すりゃ―いーのに。モテるんでしょ」
「モテねえよ、バカ」
「またまたぁ。時庭展示場が栄えていたとき、呼び込みの女の子たち、根こそぎ食ったって武勇伝、有名なんですよ」
「なんだ、その話は!」
思わず声が高くなり、抱き上げていた実來がびくりと驚く。
「まあ、根こそぎ食ったは言いすぎですね。でもみんなでキャーキャー騒いでたってのは事実でしょ」
「別にみんなってわけじゃねえよ」
「ご謙遜を~」
猪尾はなおもにやにやと笑っている。
「かっこいいし、仕事もできて、金もあるんですから、さっさと女捕まえて所帯持ったほうが楽なんじゃないですか?家事、全部やってくれますよ」
「別に困っちゃいねえよ」
「勿体ないなあ」
猪尾は上端とも言えない顔で上司を見上げた。
「何も時庭展示場と共に心中することないじゃないですか」
「…………」
「……マネージャー?」
急に黙った篠崎を猪尾が見上げる。
(おっと。反応しろよ、俺)
「うっせえ。ほっとけよ」
言いながら実來に目を戻す。
「どれ、おじちゃんと探索するか。家の中」
「うん!」
実來が顔を輝かせながら、バスルームを指さした。
「あっちがいい!」
「おっけーい」
篠崎は片腕で実來を支えると、バスルームに続くドアを開けた。
上がり框に置いたままの上着の内ポケットの中で、スマートフォンが震えていた。