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それから蒼翠は一刻ほど木簡の整理や、別領地にいる配下からの報告の確認にと、自身の職務に勤しんだ。
邪界で暮らすようになって十三年。筆の扱いは大分様になってはきたものの、書き損じの許されない木簡への書き込みは未だ苦手だ。毎度集中しすぎて気づくと目と肩が悲鳴を上げている。今回も木簡の最後に仕上げの印を押して仕上げたところで、こめかみにツキンと痛みが走った。
「ああ……疲れた……」
これは夜に軽い頭痛が来るな。予想しながら指で眉間を揉みほぐしていると、部屋の外からやんわりと入室の許可を求める声がかかった。
「蒼翠様、よろしいでしょうか?」
「無風か? いいぞ、入れ」
「失礼します。区切りがついた頃かと思い、疲労を和らげる茶を入れてきました。菓子も作ってきましたので、ご一緒にどうぞ」
「ああ、気が利くな。ちょうど甘いものが欲しいと思っていたところだ」
「では、こちらへ」
休憩用の小さな卓に持ってきた茶と菓子を置いた無風が、蒼翠のもとまでやってきてそっと手を差し出す。立ち上がるのに手を貸してくれるようだ。だが――。
「……おい無風。俺は妃でも年寄りでもないぞ」
側仕えの手を借りて歩くのは妃嬪か足腰が弱った老人ぐらいなもので、若く体力のある男には必要のない配慮だ。しかし作法の間違いを指摘するも無風は慌てる様子もなく、落ち着いた笑顔を浮かべて蒼翠の腕を掬い上げる。
「お仕事でお疲れの蒼翠様を、どんな小さなことでもいいのでお支えしたいのです。他に誰かいる時は控えるようにしますから」
どうやら分かってのことらしい。
「お前……本当に変わったな」
「そうでしょうか?」
「昔は俺が近寄ろうとするたびに、慌てた顔で逃げてたのに」
そんなに俺は怖いのかと、ショックを受けた記憶はまだ鮮明に覚えている。
「あれは逃げていたのではありません。主である蒼翠様に触れることに恐縮していたんです」
「ん? ってことは今は恐縮しなくてもいい存在なのか? 俺は」
「そういうわけでもありません。あの時は思考が子どもだったんです。今は遠目で見ているだけより、直接お傍でお支えすることが一番だと思って」
だから行動を変えたのだと、無風は説明する。
「まぁ、そういうことなら別にいいが……」
少しばかり過保護すぎる気もする。
そんなことを思いながらも手を借り、長椅子へと座る。そうして用意された茶を一口飲んだところで蒼翠はふとあることを思い出し、執務机の整理をしている無風に声をかけた。
「――そうだ、お前は町に興味はないか?」
「町ですか?」
「最近は聖界の監視も緩くなってきているようで、少人数でならあちら側に近づいても目こぼしされるようになった。こちらとあちらの境には、お前が住んでいた故郷があるだろう? 行きたいなら構わないぞ」
邪界皇太子の炎禍(えんか)が聖界の将軍に敗退するという失態を演じてから数年は、境界の町に近づくことも許されなかったが、邪界全体で自粛を続けた甲斐もあってここ数年は規制が大分緩和されてきた。今ならお忍びという形で聖界の管轄地に足を踏み入れても、問題はないだろう。
そのこともあっての提案なのだが、実は蒼翠には別の思惑もあった。
――無風ももう十九歳。ドラマの展開的に考えると、そろそろ聖界の町で隣陽(りんよう)と出会って貰わなきゃいけないんだよな。
隣陽は、金龍聖君で無風の初めての恋人となった白龍族の薬師だ。
二人が出会ったのは、無風が蒼翠の言いつけで聖界の町に訪れた時。その際、彼女はちょうど、貴族の役人と口論をしている真っ最中だった。理由は貴族が下人の幼子を理不尽に痛めつけていたから。
『身分が高いという理由だけで、子どもを虐げてもいいなんて道理はどこにもないわ!』
そう言って隣陽は貴族に食ってかかった。しかしそのせいで彼女は貴族の怒りを買ってしまい、役人に捕まりそうになってしまった。そこを助けたのが、無風だったのだ。
そんな風に出会いを果たした二人。しかし無風は最初、隣陽の行動が無謀だとしか思えなかった。権力も腕力もないのに貴族に楯を突くなんて、進んで命を捨てるようなものだ。
けれど隣陽と言葉を交わすと、すぐにその印象は変わった。彼女は自分が弱いことをきちんと自覚したうえで、それでも救いを求める人がいたら助けたいと願う、優しい頑固者だったからだ。
彼女は弱い。でも心は強い。
隣陽と語り合うと、不思議と気持ちが明るくなった。
自然と笑顔にもなれた。
それからというもの、無風は蒼翠から理不尽な暴力を受けても、虫の居所が悪いからと薄氷の張る湖に突き落とされても、彼女と会うだけで心を強く保てるようになった。
恐怖と失望しかない毎日でも、生きていたいと願うようになったは、すべて彼女のおかげだ。
やがて無風は、隣陽に特別な感情を抱くようになった。
無論、恋心だ。
生涯を添い遂げるのであれば相手は隣陽がいい。いつか邪界を出られる日が来たら、彼女に求婚しよう。無風は淡い期待を胸に抱きながら隣陽との密かな逢瀬を続けた。しかし。
二人の幸せは長くは続かなかった。