「はぁ、はぁ……」
身体に力が入らない。視界がぐにゃぐにゃ歪む。空っぽの胃が苦しい。もう吐き出す胃液もない。
「死ぬ、死ぬ……」
その男はゾンビのごとく夜道をふらついていた。限界はとうに迎えていた。死ねば楽になることもとうに分かりきっていた。
「そうだ、死ねば楽に……」
死ねなかった今までを誤魔化そうと、今更思い立ったかのように呟く。その途端、足と共にぴたりと思考が止まり、恐ろしいほどの静寂が流れた。この静寂も幾度目だろう。このまま黙って死んでいいのか?
「いや、死ぬくらいなら滅茶苦茶やってやろう」
溜め込んできた色々なものが、脳の奥からゆらりと燃え上がった。真っ先に思い浮かんだのは、ここをよく一人で通る銀髪のボブで切れ長の黒瞳の女。一ミリも変化のないぼーっとした真顔でだらだら歩いているが、一体何を考えているのだろう。
「……どんな味がするんだろうな」
悪者になった気分で口元を歪める。人道から外れる覚悟を決めるのは簡単だった。何せ、元より人ならざる者なのだから。
🍅🍅🍅
「ねぇねぇ最近この辺で吸血鬼が出るんだって!」
ある日ののどかな昼休み、新月高校2年A組の教室の中心に集まるグループから突如異様な話題が飛び出した。
「え〜架空生物じゃないの?」
「仮にいたとしてもとっくに絶滅してるくね」
訝しげな友人達に対して、一人の女子が興奮気味に説明する。
「本当にいるんだって!ゾンビみたいに夜道徘徊してて、目合った瞬間襲ってくるらしい」
「それどこ情報?」
「B組の子のTokTok」
「信用ならねぇな」
「令和の世はTokTokが命綱だからね」
「そんなことはない」
「怖くなって徹夜で調べたんだけど」
「そんなくだらないことで徹夜すんな」
「もし噛まれたら貧血になったりPTSDになったりするらしい。あと一番最悪なのが……」
そこでタイミング悪くチャイムが鳴った。興味無さそうにしていた聴衆はすぐさま散り散りになり、話者も渋々席に着く。
「あ……」
最後列の片隅の席で、暇潰しながらも一応ちゃんと話を聞いていた一人の女子生徒は残念そうに声を漏らした。彼女の名は藍原しずく。無表情で無口で一人ぼっちであり、休み時間は暇を持て余している。しずくに話しかける者は誰もおらず、しずくも誰にも話しかけることはない。
その為続きが気になるからといってわざわざ聞きに行くことはしない。会話が面倒だし、ああいううるさいのは最も苦手なタイプだ。
(まぁどうせ嘘だろうし気にしなくていいか)
気分を紛らわせようと教科書の準備をする。だがすぐに手を止めて思い直す。
(……とか油断してると出てくるんだよね)
やはりしずくには今の話が嘘だとは思えなかった。目に見えるものが全てではないし、今まで世を忍んで生きてきた吸血鬼がある日うっかり見つかっても有り得なくはない。
(遂に“これ”を使う時が来たかな)
しずくは机の横に掛けたリュックの表面越しに、とっておきの”それ”にそっと手を当てた。
🍅🍅🍅
「〜さん、藍原さん起きて!」
「ん……」
クラスメイトに肩を揺すられ、しずくはぼんやりと目を開けた。どうやら帰りのHR中に寝落ちしたらしい。時計はとっくに最終下校時刻を過ぎており、皆部活を終えて帰っている。帰宅部のしずくは帰宅すらろくにできず、電気が消された真っ暗な教室に一人ぽつんと取り残されている。傍から見れば可哀想だが、寝落ち常習犯のしずくにとっては見慣れた光景だ。誰にも気付かれず夜の校舎に閉じ込められたこともある。
(またそうなっても別に良かったのに)
ひねくれたしずくは感謝も言わずにさっさと教室を出た。
高校から家までの距離はそう短くはないが、自転車で走るほどでもない。街灯も人通りもなく闇に包まれた道を、特に急ぐこともなくのんびり歩く。
華奢な身体で重い荷物を背負いたくないので、禁止されていても構わず全教科書とノートをロッカーに置いてきている。家で勉強する気は一切無い。その為何も背負っていないかのように身軽なのだが、それでも歩くスピードが大分遅い。たとえ人と歩いていてもそのスピードは変えないマイペースな性格である。
歩くのに飽きたら俯いて石を蹴りながら進む。周囲の危険などまるで気にしない。そのせいで明らかに不審な男が電柱の影で待ち構えていることにも気付かなかった。
電柱を通り過ぎようとしたしずくの前に、男は仁王立ちで立ち塞がった。
「フフ……そこの女子高生、いかにも美味そうだな」
長めの赤髪、そこから覗く目つきの悪い同色の瞳が、獲物を捕らえるようにギラリと光っている。一見人間と変わりないように見えるが、対峙すると人ならざる雰囲気がひしひしと迫ってくる。歪んだ口元からちらりと覗く牙を見て、しずくは男が噂の吸血鬼であることを確信した。
「ほらやっぱり出てきた」
「え?」
一瞬当惑する男に「なんでもない、続けて」と余裕の対応を見せながらリュックのポケットに手をかける。
「その身に流れる瑞々しい生き血、一滴残らず吸い尽くしてやる!!」
そして襲いかかってくる手の平に、ガンプレイのごとく回転させながら取り出したスタンガンを押し付けた。バチバチッと青い火花が散り、男は瞬時に後退る。
「いっだぁぁ!!なんだ今の!?」
「スタンガン。見れば分かるでしょ」
涙目の男に見せつけるように、慣れた手付きでくるくるスタンガンを回してみせる。
「見ても分からない、意図が……」
「一番お気に入りの武器だから持ち歩いてるの。コンパクトなのに威力抜群だし、護身とか暇潰しの鑑賞なんかで普段使いしやすいし」
「武器を普段使いするな物騒すぎるだろ!!」
「物騒なあなたに言われたくない。これ以上近付いたら殺るよ」
「だから怖いって……」
男は自らを超えるほどの異常者にすっかり怯えている。ように思われたが、すぐに不敵な笑みに戻った。
「だが残念だったな。吸血鬼は不老不死、誰も俺を殺すことはできない」
「えー無敵チートずるい」
「フッフッフ……さぁ大人しく血を差し出すがいい!」
しずくはすかさずスタンガンの代わりにスマホを構えた。
「オッケーベーグル、吸血鬼を殺す方法を教えて」
かくなる上は人工知能の頭脳を頼るしかない。
「ま、待て、不安になってきた」
男の声が情けなく震える。対してベーグルは自信満々に喋り上げる。
『吸血鬼の弱点とされるものは十字架、ニンニク、日光です』
「それなら大丈夫だ。現代の吸血鬼は進化しているからな」
『水責めにする、心臓に杭を刺す、首を刎ねるなども効果的です』
「あっ駄目かもしれない」
「吸血鬼弱点多すぎ。とりあえず全部試してみよっと」
今度はナイフまで取り出すしずくに、男は慌てて手をブンブン振る。
「分かった分かった吸わないから!!」
「都合の良い奴は信用できない。どちらにせよヴァンパイアハンターに捕まえてもらう」
「そ、それだけはやめ……ヴッ」
するとツッコミに疲れたのか言葉が途切れ、男はバタリと前に倒れた。
「あれ、勝手に自滅した。騒ぐだけ騒いでおいて何だったんだろ」
頭上から見下ろしてみると、弱った声で嘆く。
「ウゥ、俺は本当に血不足で辛いんだ……死にそうなんだ……」
「死なないんじゃなかったの?」
「今のは喩えだ!!あぁもう吸血鬼だからって避けられ見下され、こんな人生あんまりだ……」
「人じゃないけどね。大丈夫?」
「どう見ても大丈夫じゃないだろうが!!……ゲホゲホッ」
いちいち煽りに声を荒げるせいでますます息が切れて咳き込む。苦痛で顔を歪ませ、縋るような目で見上げてくる。
「なぁ、ちょっとでいいから血を恵んでくれないか……?人助けだと思って……」
「人じゃないけどね」
と冷たく返しながらも、あまりの哀れさに流石のしずくにも同情心が湧いてくる。
「……」
沈黙の中で手を差し伸べそうになり、いや騙されては駄目だと踏み留まる。
「そうだ、そこのコンビニでチリソース売ってるよ」
「だから血が欲しいって……言ってるだろ……」
こんなに覇気のない蚊の鳴くようなツッコミ、もはやツッコミとは言えない。
「……仕方ないな」
しずくはのそりとしゃがみ、男の腕を無理矢理引っ張った。
「ほら起きて、不老不死とか言っておきながらくたばったら吸血鬼の恥だよ」
「あぁ、ありがとう……」
男は力なく寄り掛かり荒い息を吐く。それが苦しさではなく興奮によるものだと気付いた時にはもう遅かった。
「かかったな馬鹿め!」
次の瞬間、男はしずくの肩を掴み、ガブッと首を噛んだ。傷一つない白い首筋に、容赦なく牙を突き立てた。
「最低だね」
ビリビリと痺れるような痛みが走り、しずくは眉をひそめる。痛みと共に肉に異物が侵入し、皮膚が麻痺したような違和感がいつまでも残る。
「フッ何とでも言え。あ〜生き返る」
男は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、欲望のままにごくごく喉を鳴らして血を一気飲みする。
「ゴミクズ倫理観ゼロ害獣」
「それは流石に言い過ぎだ」
段々しずくの意識が朦朧とし、全身の力が抜け、片手に備えていたスタンガンがカランと無常な音を立てて落ちる。
三分ほどじっくり味わわれた後、ようやく牙が静かに抜かれた。
「見込み通り極上の美味さだった。ご馳走様」
口元についた鮮やかな血を拭い満足げに息をつく男。勝手に頂いたくせにきちんと食後の挨拶をするところが憎らしい。男が元気になってシャキッと背を伸ばしている分、しずくは屍のようにだらりと項垂れている。
「そうだ、血を吸われた人間はどうなるか知ってるか?」
「あ、まさか……」
「そのまさかだ。お前も今日から醜い吸血鬼の仲間入りだ!せいぜい吸血鬼を呪うがいい!」
高らかな笑い声が響く。あの女子生徒が伝えようとしていた最悪なケースとはこのことだったのだ。一度噛まれてしまえばもう取り返しがつかない。残酷な運命に翻弄されるしかない。
そんな絶望ムードが5秒ほど続いた後。
「……なんてな」
男は手を広げて肩をすくめ、揶揄うように笑った。
「ゾンビじゃあるまいしそんなのただの迷信だ。安心しろ、ちゃんと人間のままだぞ」
危害を加えておきながら冗談まで挟んでくるらしい。極めて悪質だ。だが当のしずくは相変わらず呻いている。
「う、欲しい……」
「おい冗談だって」
「あの赤く美しい液体が欲しい……」
「馬鹿な、本当に吸血鬼に!?一体どう責任を取れば!?」
慌てふためく男の前で、しずくは欲望を解き放つように両手を広げて天を仰いだ。
「あぁ、今すぐにトマトジュースが飲みたい!」
衝動的に求めたのは、何故か血ではなくトマトジュースだった。
「……え?」
理解が追いつかないといった様子で固まる男に、しおらしさなど知らないしずくは当然のように命令する。
「ねぇ血飲ませてあげたんだから、あなたもそこのコンビニでトマトジュース買ってきて」
「ト、トマトジュースってあのトマトジュースで合ってるよな?血の比喩じゃないよな?」
「そうだけど」
「え、なんで?」
「いいから早く」
「ほんとになん……」
命令に逆らっていると勘違いしたしずくは苛ついて催涙スプレーを発射した。スタンガンの他にもまだまだ武器はある。
「分かった買ってくるからぁぁぁ!!」
痛みに従順な男は目を押さえ、逃げるようにすっ飛んでいった。その情けない背中を見送りながら、慣れない場所にできた傷痕にちょんと触れてみる。
誰も傷付けられないはずの領域がいとも容易く他人に、それも人外に傷付けられるとは思いもしなかった。果たしてこれは一瞬の悲劇か、それとも運命か。
「……これが吸血鬼か。面白い生き物」
無理矢理血を奪われたにもかかわらず、しずくはやけに楽しげに呟いた。
🍅🍅🍅
「吸血鬼の動画嘘だったらしい。コメ欄でフェイクだって散々馬鹿にされて、動画もすぐに消されてた」
「消したってことは図星ってことだよねぇ。あーあ、信じて損した」
翌日、そんな会話を最後に、教室の輩は吸血鬼のことなどすっかり忘れ、普段通りの平穏でくだらない日常に戻っていた。あれだけ騒いでいた女子も孤立したくない為か別の話題で盛り上がっている。
そんな中、隅で僅かなざわめきが起きていた。完全孤立した者は周囲に合わせずただ己の道を突き進むのみ、と言わんばかりの光景。
何を考えているか分からないヤバ女で有名なしずくの机が、突如大量のトマトジュースで埋め尽くされているのだ。壁のように積み立てられた紙パックが身体を完全に隠している。これで授業中寝落ちしても気付かれない。その前に先生から怒られ、クラスの笑い者になるだろうが、しずくはその程度のことなど気にしない。何せ吸血鬼に襲われても平気だったのだから。
「もしやアイツが吸血鬼だったりしてw」
「え〜キモw」
低レベルな悪口を聞き流すように、しずくはトマトジュースを一気に流し込む。吸血鬼を見習って欲望のままにごくごく飲み続ける。トマトの爽やかな甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、心が幸福感で満たされる。
「……ぷはぁっ」
吸い切った弾みで口からストローを離し、だらりと背もたれに寄り掛かる。
「美味しすぎる〜トマトジュースがないと生きていけない〜」
今のしずくには人を襲ってでも血を求める吸血鬼の気持ちがよく分かる気がした。別に分かりたくはなかったが。
つづく🍅(かどうか不明)
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気に入りすぎだろ 良いんですそれが創作だから(正当化)