渡辺は管理棟のトイレで手を洗うと、ハンカチで拭き、五分刈りの短い髪の毛を形だけ整えた。
ふうと一息つくと、事務所で何か貰い物のお菓子をつまんでいる管理人にお辞儀をしながら、その脇を通り過ぎた。
「渡辺さん」
「っおお!!びっくりした!!」
渡辺は大きい体を仰け反らせた。
「何?!新谷君!!」
「しーーーーっ!!」
由樹は人差し指を唇に当てると、力いっぱい渡辺の巨体を引っ張り、ゴミ捨て場まで連れてきた。
「何よ何よ?どうしたのよ?」
丸い目をもっと丸くして渡辺が由樹の視線に合わせるように屈む。
(……う。この展示場にいると、自分がチビに思える…)
一応これでも172cmある由樹は軽くため息をついてから、前後左右を確認した。
「あの、渡辺さん。聞きたいことがあるんですけど」
「なに?」
ただならぬ様子に、渡辺も声を潜める。
「あの、篠崎さんの彼女について……なんですけど―――」
渡辺の目がそのままの大きさで、五ミリほど前に突き出した。
「ねぇ、なんで?!」
そのままの目で渡辺が由樹を覗き込む。
「なんで、そんなこと、聞くの??」
「こ、こちらが質問してるんですけど……!」
血走っていく渡辺の目に恐怖感を覚え、由樹は一歩後退した。
「うん。こっちも質問してるんだけど?!なんで?ねえ、新谷君?!」
「……あ、あの」
その丸い手が由樹の肩を掴む。
「昨日、篠崎さんとなんかあったの?!」
「な、ないです、なんも………!!」
「ないならなんで彼女の話を聞くの?!」
「…………」
由樹は小さく息を吐いた。
「………実は、妹さんにいろいろ聞いて……」
言うと渡辺は目を元の位置まで引っ込めてから、由樹の肩を離した。
「……佳織ちゃんか」
彼は少し目を伏せた後、フラフラと歩き出した。
「あ……渡辺さん?」
足を止めない渡辺の後を、由樹は慌てて付いていった。
渡辺が連れてきたのは展示場の駐車場だった。
「篠崎さんさ」
渡辺は振り返らないまま話し出した。
「はい」
「いつもここで、煙草吸ってんの、知ってる?」
由樹は頷いた。なぜか管理棟の喫煙スペースではなく、事務所の裏でもなく、この駐車場をフラフラと歩きながら吸っている。
「あれさ。待ってんだよね。多分。その、彼女のこと……?」
「…………」
由樹は平日でほとんど客が入っていない駐車場を見回した。
「待ってる?」
「近所に住んでるのか、それとも遠くから逃げてきたのか、よくわかんないんだけど、彼女はいつもこの駐車場で泣いてた」
渡辺がその時の情景を思い出したのか、少し目を細めた。
「……顔中に痣作ってさ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初めに気づいたのは、俺だったんだ。
なんか、あの人いつもいるなって。それで篠崎さんに相談して。
ある日、篠崎さんが、駐車場のへりに腰かけて泣いている彼女に、声をかけたんだよね。
頭を上げた彼女を見た俺たちは、同時に「あっ」て声を上げた。
だってさ、見覚えがあったんだもん。
彼女は、数年前、セゾンエスペースから家を買ったお客様の奥様でさ。時庭展示場にも何度も打ち合わせに来てたから。
でも、当時打ち合わせしてた時とはすっかり様変わりしてしまっていて、俺も篠崎さんも戸惑ったのを覚えてるよ。
ふっくらとさ、ちょっと太ってて、よく笑う女性だったのに。
痩せこけてさ。顔だけじゃなくて腕にも、足にも痣作って。
なかなか話し出そうとしない彼女に業を煮やして、俺、警察に連絡しようって篠崎さんに提案したんだけど。
篠崎さんが「ちょっと場所変えて話聞いてみる」ってさ。近くのファミレスに連れて行ったんだよ。
んで何を話したのかはわかんないけど、数時間後に戻ってきた篠崎さんはたった一言「大丈夫だから」ってさ。
でも、数日たって、彼女はまた来たんだ。
今度は泣いてなくて、急にめかしこんでさ。
駐車場から、チラチラこちらを見てた。
すぐに気づいた篠崎さんが彼女のところまで走って行って、二人で何か親密そうに話して。
それから彼女は頻繁に、展示場に訪れるようになった。
篠崎さんはそのたびに何か一言二言交わしては、彼女を帰したり、時には途中で早退して、彼女と車に乗り込んでどこかに行ってしまうこともあった。
時庭のメンバーはみんな知ってるよ。
それだけ彼女は、目立ってたし、篠崎さんも湧き目を振らず、彼女に尽くしているように見えた。
まあ。訳ありみたいだし?彼女が苦しんでいたのは見てわかったから、誰も何も言えなかった。
篠崎さんも、それで成績が下がるどころか、飛ぶ鳥を落とす勢いでどんどん受注を決めていた時期だったし。
………でもある日。彼女は突然、展示場に来なくなった。
それで、旦那さんがさ、訪ねてきたんだ。
もちろん、篠崎さんを、じゃないよ。担当の営業マンを、ね。
担当?ああ。新谷君も知ってるあの人だよ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
由樹は左にウインカーを出し、天賀谷展示場に車を乗り入れた。
セゾンエスペースの展示場の脇に車を停め、白のキャデラックがあるのを確認すると、中に入っていった。
展示場に入ると、紫雨は自分の椅子に凭れながら、設計から上がってきた間取りをチェックしていた。
「あれー?新谷君。金曜日からじゃなかった?待ちきれなくて異動してきちゃったのかなー?」
紫雨の笑い声に、飯川が合わせて笑う。
「いえ、今日は紫雨さんに話があって」
「俺に?なんだろ。あれかな。夜のお誘いかな」
ニヤニヤ笑う紫雨を林が睨む。
由樹はずかずかと上がり込むと、半袖のワイシャツを着た紫雨の腕を掴んだ。
「は?」
「え?」
紫雨と林が目を見開くなか、由樹はその身体を引っ張り起こすと、そのまま展示場に引きずっていった。
「何よ、ちょっとぉ」
和室まで行くと、紫雨は引っ張られた腕をさすりながら新谷を見つめた。
「君、案外力強いね……」
「紫雨さん!」
間髪入れずに由樹はこれから上司になる男に詰め寄った。
「な、なんだよ……?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ああ。篠崎さんの?
確か門倉さんの奥さんでしょ。門倉美智さん。
俺が商談してた時は、別段問題ない夫婦に見えたんだよ。
引き渡しが済んで、1年点検のときかな。なんかおかしかった。
部屋はすごくきれいなのに、奥さんだけなんか古くてほつれた服着てんだよね。
まあ、家を建てた直後は金がなくて、数年は控えめな生活を送る家族は珍しくないから、門倉さんちもそうなのかなって思った程度だったんだけど。
3年点検の時には、明らかに奥さん痩せてて、病気でもしたのかと。
でもたかがハウスメーカーの営業がさあ、そこまで聞くわけにもいかないでしょ。
家を建ててすぐ離婚する夫婦もいるし。時間の問題かなっては思ったんだけどね。
……んでそのうち、篠崎さんと門倉さんとの噂が流れ始めて。
男女のことなんて興味ないし?こっちに火の粉が飛んでこないうちはどうでもいいと思ってたんだけど。
ある日、旦那さんが展示場に駆け込んできてさ。
「うちの妻を知らないか」って。
もちろん俺が知るわけもないし。
こっそり聞いたけど篠崎さんも本当に知らないみたいだった。
消えちゃったんだよな。急に。
それが確か、1年半くらい前かな。
………え?
ないよ……。5年点検なんて。次は10年!
………はぁ?
俺に5年点検の名目でアポとれって?
馬鹿じゃないの、君。
そんなのバレたら始末書もんなんだけど。
まあ、行ってみれば奥さんの気配とか、持ち物とか靴とかで、わかると思うけど。
げ。……君も行くの?
俺、知らないよ。
もしバレても俺、知らぬ存ぜぬ押し通すからね。
てかさ。新谷君、論点ずれてない?
篠崎さんと門倉さんがどうなろうが、君に関係ないでしょ。
肝心なのは篠崎さんと君はどうなのかってとこだよ。
そこをはっきりさせてこなかったら、
天賀谷展示場の敷居、跨がせないからね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
時庭展示場に戻ると、由樹は週間予定を入れ込んだ。
『紫雨リーダー同行。3年点検』
書き込んだ“嘘”に小さく息をついて、隣にいる篠崎を盗み見る。
「おし、出来た。小松さん、行けますか?」
声が由樹の頭上を飛んでいく。
「こっちもオッケーです!」
小松が眼鏡をかけ直しながら立ち上がった。
「アポ何時でしたっけ?」
そのまま大きなカバンを手にしている。
篠崎も出力した見積もりを手に立ち上がる。
「7時半。俺の車でいいすか」
「お願いします」
慌ただしく出ていく2人を見送り、由樹はため息をつくと、そのスケジュールに『現地直行』と付け足した。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!