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「ミサ?」
勝成が発した言葉に蒲生家の主君と他の家臣は訝し気な表情を浮かべたが、ただ一人宗易だけは肉厚の顔に柔らかな微笑を浮かべて頷いた。
「やはり山科様はお気づきになられましたか。左様です。この濃茶の回し飲みの作法は以前この堺にやって来られた伴天連殿が行った確か……そう、「聖体拝領」と申す儀式を見て、感銘を受けた故私なりに工夫して取り入れたものなのです」
「おお!」
勝成の顔貌が輝いた。
先程まで退屈で苦痛すら感じていた茶の湯であったが、一気に心弾むものとなった。
「何なのだ、その「聖体拝領」とやらは?」
主君の問いに勝成は会心の笑みを浮かべながら答えた。
「聖体拝領とは我らカトリック教徒のミサ、すなわち重要な儀式で、葡萄酒とパンを皆で分け合うものです」
キリスト教の開祖にして神の子イエスキリストは処刑される前日の夜に十二人の弟子と共に最後の夕食を取る。
これがレオナルドダヴィンチの作品で有名な「最後の晩餐」である。
キリストは十二使徒と呼ばれる弟子たちに向かって弟子の一人が己を裏切ること、また弟子たちが己の苦難の際に逃げ散ることを告げる。
動揺を露わにし、必死になって否定する十二使徒にキリストは賛美の祈りの後にパンと葡萄酒をそれぞれ自分の体、自分の血として与え、
「これをわたしの記念として行え」
と命じたとルカによる福音書は記している。
「面白い話だな」
賦秀は異国の宗教の逸話、儀式に強い興味を持ったらしく、軽く己の膝を叩いた後、宗易に問いかけた。
「この濃茶の回し飲みはその切支丹の儀式を見て取り入れたと。宗易殿はいつその儀式をご覧になられたのですか?」
宗易はそう問われ、目を閉じた。在りし日の追想に耽っているのだろう。
「そうですね、あれは今からもう三十年程前になりますか。フランシスコザビエルと言う名の伴天連様が京に向かう前に堺に立ち寄られ、ほんの数日程ですが、滞在しておりました。海の彼方から艱難辛苦を乗り越え仏の教えとは全く異なる宗教を伝道する為にやって来たという人物に興味を持った若き頃の私は仲間と共に彼を訪ね、色々面白き話を聞かせていただきました。そこで我らは彼に茶を振る舞ったのですが、彼はその御礼にと南蛮より持ち込んだ葡萄で造った酒を出してくれたのです。そして彼ら切支丹は聖体拝領という大事な儀式では一つの杯で回し飲みするのだと語り、我らにもそうするように勧められました」
「ふーむ」
「その時は私どもは戸惑いましたし、抵抗がありましたよ。同じ杯を数人で回し飲みするなど、不潔としか思いませんでしたからな。この日ノ本の文化では有り得ない作法です。しかしザビエル殿は申されました。今日の出会いをより尊いものとする為に思いを、心を一つにするのだと。その言葉に私は深い感激を覚えました。これぞ「一味同心」であると。そしてこの心は是非に茶の湯に取り入れねばと思い定めましたのです」
「ああ、成程。これで合点がいきました」
孫作が言った。
「私もこの濃茶の回し飲みはいささか不思議に思っていたのですよ。あまりに我らの作法や考え方と違っております。他人と食器や道具を共有するなど、本来我らの作法にはあり得ませんからな。これは南蛮から渡来した作法なのですね」
そのことは勝成にもよく分かる。ジャポネーゼの文化、特に食文化に関しては極めて個人主義的だと言えるだろう。
西洋人のように食卓を大勢で囲んで食するということはせず、食事は膳に乗せられて提供され、箸でもって一人で食することからも明らかである。
また武具や甲冑その他の道具でも他人に貸し借りしたり、共有することもひどく嫌う。
ジャポネーゼは極めて潔癖症な民族なのだ。本来であれば彼らが茶碗を回し飲みするなどあり得ないことなのだろう。
「ええ、ですが「一座建立」すなわち茶席に集った全ての人々が心を通わせ、真に美しく調和された場を作り上げるためには、我らの価値観、伝統的な考えだけに囚われていてはいけません。異国のものでもそれが優れているのであれば取り入れる。それが私が考える茶の湯でございます」
深く頭を下げながら言った宗易の言葉に勝成は深い感動を覚えた。
(これこそがジャポネーゼの真髄なのかも知れん)
本来、喫茶の習慣は宋と呼ばれるシーナの王朝から伝来したものだという。
そこに清浄を尊ぶジャッポーネの民族宗教である神道、元はインディアで生まれジャッポーネに深く根付いた禅仏教の教えが融合し、さらにそこにキリスト教カトリックの儀式が加わって完成しつつあるのがこの茶の湯なのだ。
何とジャポネーゼらしい文化だろうか。
(ジャポネーゼの文化の真髄を会得する為にも、俺は是非とも殿と一緒にこの茶の湯を学ばねばならん。俺もこの千宗易という人物を師と仰ごう)
つい先ほどまで退屈で苦痛とすら思えた茶の湯、そして胡乱気に思えた宗易という人物に対して考えが改まり、深い敬慕の念が生じていた。
(それにしてもこの茶の湯にフランシスコザビエル師が関わっていたとはな)
勝成はかつての雇い主であるイエズス会士オルガンティノから聞かされた偉大な宣教師フランシスコザビエルに思いをはせた。