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ジャッポーネ、日本国で初めてキリスト教カトリックの教えを伝えた人物として不滅の名を残すことになるフランシスコ・ザビエルはエスパーニャのナバラ王国生まれのバスク人で、イエズス会の創設者の一人である。
地方貴族の子として生まれた彼は長ずると名門パリ大学に入学。哲学を学んでいたが、イグナチオ・デ・ロヨラに出会い、彼に影響を受けて聖職者を目指すことになった。
そして同様にロヨラに感化を受けた若者達、総勢七名でモンマルトルの聖堂に誓いを立てた。
その誓いとは「生涯を神に捧げ清貧・貞潔を貫きエルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」というものだった。
そしてカトリックの教えを広めることに情熱を燃やすザビエルはインディア各地で布教し、訪れたマラッカでヤジロウという名の日本人と出会う。
薩摩という国出身のヤジロウは若い頃に殺人を犯してしまった為に日本を出てマラッカに逃亡していたのであり、その罪を告白するためにザビエルを訪れたらしい。
ヤジロウに洗礼を与えたザビエルは日本に強い関心を抱き、彼と共に1549年(天文18年)8月15日に薩摩の地に上陸した。
ザビエルはまさに全身全霊を捧げてキリスト教カトリックの布教に邁進した。
ザビエルは日本人を
「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます」
と記した程高く評価したが、布教そのものは困難を極めたようである。
ザビエルはこれまでゴアやマカオでそうしたように、唯一絶対のデウスのみが神であり、神の子キリストの教えを信じなければ救われない、死後は地獄に落ちるであろうと諄々と説いた。
すると日本人からは
「何故そんなありがたい教えが今までこの国に来なかったのだ」
「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は今、どこでどうしているのか。地獄に落ちてしまったのか」
と返ってきた。
予想だにしなかった問いに困惑したザビエルはつい、
「残念ながら、その方々は地獄に落ちてしまっているでしょう」
と答えてしまった。
すると日本人達は
「俺たちだけ救われてもご先祖様に申し訳が立たないから、俺は救われなくていい」
「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」
と非難してきたのである。
その後もザビエルは各地でキリスト教カトリックの教えを説くのだが、素直に感動してその場で入信する者はなかなか現れず、カトリックの教え、ザビエルの説法の矛盾を的確につき、ザビエルは答えに窮するという事態が度々生じた。
ザビエルはやむを得ずイエズス会本部に
「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本での布教は苦労するであろう」
と手紙を送った程であった。
「ザビエル師は人格的には非常に立派な方だが、神学の理解そのものは残念ながら浅かったようなのです」
オルガンティノはほろ苦い笑みを浮かべながら先人を評した。
デウスを「ダイニチ」というホトケの最高神に訳した為、カトリックの教えがホトケの一派だと勘違いされたこともあったらしい。
いや、現在でもそう思っている信徒も少なからずいるのかも知れない。
その誤解を解く為にオルガンティノは法華経を研究したりしたのだろう。
ザビエルはジャッポーネ全土での布教の許可を得る為に当時のインペラートルたる後奈良天皇、そしてショーグンである足利義輝に謁見を求める為に京を目指す。
その途中で堺に滞在し、宗易に出会って茶の湯を振る舞われ、その礼に聖体拝領の儀式を披露したのである。
己の何気ないささやかな行動が全く意図しない形でジャッポーネの文化に多大な影響を残したことを知らないないままザビエルは王都である京に着くが、そこで得るものは全くなかった。
当時の京は戦乱によって荒廃を極めていた為、天皇にも将軍にも謁見が叶わず、また比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるも頭から拒絶された。
大いに失望したザビエルは京での滞在は諦め、周防国に入ってその地の大大名である大内義隆と謁見。ジャポネーゼから見れば珍しい西欧の文物を献上した為大内義隆を喜ばせ、布教の許可を得ることに成功した。
その後豊後国に入ってその地の大名、大友義鎮(後の宗麟)の保護を受けて宣教を行った。
一見布教は着実に成功しているように思われたが、ザビエル本人は左程手ごたえを感じることはできなかったのだろう。
ジャッポーネにカミやホトケへの信仰を捨てさせ、真にカトリックに改宗させるためにはどうすればよいか?
考えに考え抜いた末ザビエルが辿り着いた結論は、ジャッポーネの文化に多大な影響を与えているシーナでの布教が不可欠であるというものであった。
不撓不屈の人フランシスコザビエルは大友義鎮の手厚い保護という安穏の日々をあえて捨てて顧みずシーナを目指したものの入国は思うようにならず、上川島という島で病を得て亡くなった。享年46歳であった。