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オリビア・キンバリーが起こした諸々の不祥事の責任を取って副部長であるキンバリーが辞職した衝撃は瞬く間に病院内を駆け巡り、翌日には病院の業務とは直接関係のないカフェのスタッフらも知る事態となっていた。
ある種の混乱に見舞われている丘の上の病院にその日の午後、ここに来ることに怯えながらもやって来た様子の女性が訪れて受付に一言二言語りかける。
それを受けた受付のスタッフやその横のカウンターの奥からは事務仕事をしていた何人ものスタッフがカウンターの前に集まり、その女性に労いの言葉や笑顔でお帰りなさいと声を掛けていた。
その女性は今回の一件で手酷い傷を負って休職していたキャサリン・クリフォードで、病院長と部長に呼ばれたと事務スタッフに告げると、奥の席から彼女に気付いた事務長のカーターがやってくる。
「良く戻ってきてくれました、クリフォード副師長」
「……いえ」
忙しいのに休職をしてしまって申し訳ないと謝罪をする彼女をやんわりと押しとどめ、院長達が待っているので行きましょうと声を掛けて二人揃って病院長であるアーチボルドのオフィスへと向かう。
彼のオフィスは病院内の一番上のもっとも見晴らしの良い場所にあり、滅多なことでは患者やスタッフらも訪れることがない部屋だった。
その部屋に事務長と一緒に向かったクリフォードは、緊張を隠し切れない顔でカーターに続いて中に入り、立ち上がったアーチボルドに出迎えられて更に緊張してしまう。
「良く来てくれたね」
その声と笑みは先日のオリビアを迎えた時とは真逆のもので、恐縮しつつソファを示されて浅く腰掛けると、アーチボルドが何件か電話をかけ、程なくして賑やかな足音が聞こえたかと思うと、待っていたよキャサリン、お帰りと穏やかな笑みで両手を広げたテイラーが入ってくる。
「部長……」
「すぐにミランダも来る」
アーチボルドの横に腰を下ろしてにこにこと嬉しそうに顔を綻ばせるテイラーだったが、きみが良ければもう一人会ってほしい人がいると伝えるとクリフォードの顔に疑問が浮かぶが、その名を聞いた途端に顔色が悪くなってしまう。
「うん、そうなるのは仕方がない。だからきみに先に聞いた」
どうだろうか彼に会うことは出来るかと問われた彼女だったが、足の上でグッと手を握りしめた後、一つ息を吐いて顔を上げる。
「はい。……会いたいと思います」
「そうか。きみは本当に強い人だ」
そんなきみを休職させたのは明らかに僕たちの落ち度だ、だからきみさえよければまた一緒に働いて欲しいとテイラーが真摯な顔でクリフォードを見つめ、その横ではアーチボルドも重々しく頷く。
「失礼します」
そんな三人に女性の凛とした声が届き、アーチボルドが入室を促すと、ドアが開いて少しだけ頬を紅潮させたオーエンと、居た堪れないがここから逃げ出すわけにはいかないといった顔のヒルが入ってくる。
「師長! ……ドクター・ヒル、お久しぶりです」
オーエンと一緒に入って来たヒルの名を呼ぶときにはクリフォードの顔がさすがに強張っていて、オリビアが起こした事故を手酷くヒルが責め立てた後遺症を感じさせていた。
「久しぶりだな、クリフォード副師長」
「……はい」
「そこに突っ立っていないで座ればいい」
アーチボルドの苦笑交じりの言葉に二人が頷いてオーエンがクリフォードの隣に腰を下ろすがヒルはそのままだったため、どうしたとテイラーが彼を見上げる。
「……先に、副師長に謝罪をしたい。――先日の件で責めるべき相手を間違えてあなたに手酷い事を言ってしまったこと、謝罪をしたい。許してくれるだろうか」
ヒルの未だかつて見たことがないような謝罪の言葉と態度に室内にいた皆が驚愕から動きを止めてしまうが、足の上で握りしめていた拳をそっと開いた彼女が己の手を見下ろし、微かに震えながらも次いで顔を上げる。
その横顔にはナースとして長年働いてきた者の職務に対する誇りとそれを真っ向から否定された悲哀が滲んでいたが、そっと手を閉じたあと、ヒルに向けてその手を差し出す。
差し出された小さな白い手をヒルが驚きに見張った眼で見つめるが、意味を察したようにしっかりとその手を握る。
「――今後ともよろしくお願いします、ドクター・ヒル」
「ああ、こちらこそ、よろしく頼む」
クリフォードがまだ少し緊張を覚えるがそれをグッと押し隠した笑みを浮かべ、ヒルもその笑顔から許されたのだと知ると、対照的に安堵の笑みを浮かべてひとつ頷く。
「……あの患者はあれ以降容態が悪くなることもなく、今はリハビリに励んでいる」
だからあなたが巡回する時に訪れたらリハビリを頑張れと励ましてやってほしいとヒルが伝え、クリフォードがゆっくりと頷いたのを見届けると、ほかの患者の診察があるからと口早に言い残して院長室を出ていく。
その背中を見送った四人は何も言わなかったが、彼も随分と変わったとテイラーが感慨深げに呟き、アーチボルドがそうなのかと目を丸くするとこの中で彼と最も多くの時間接していたオーエンやクリフォードが確かに変わりましたと互いに顔を見合わせて頷きあう。
「ただ、この変化は正直な話、嬉しいものです」
オーエンの言葉にキンバリーという大樹がなくなった結果、本来の彼らしさが出てきたのだろうかとテイラーがポツリと呟く。
「まあそれはあるだろうな」
次の副部長が誰になるかはまだ未定でその人によってまた彼は以前のような存在になるかも知れなかったが、キンバリーの一件で彼も何かを学んでくれたようだとアーチボルドが頷く。
「クリフォード副師長」
「はい」
「以前のようにうちで働いてくれるだろうか」
アーチボルドの言葉にテイラーが期待と確信を込めた笑みを浮かべ、オーエンも当然の顔で頷く横、クリフォードがもう一度そっと手を握りしめるが、先ほどよりは穏やかな決意を秘めた顔でそっと頷き、これからもよろしくお願いしますと頭を下げるのだった。
その日の夜、今日は患者が多くて疲労感が強かった為に己一人の食事の用意をどうしようか悩んでいたモリスンは、恋人から今から行くとメッセージを受け取り、珍しいそれに驚いてしまう。
以前ならば何の連絡もせずにやって来たかと思うと、己の気が済めばこちらの気持ちなど何一つ考えずにどこかに行ってしまうような不誠実な男だったのに、どんな風が吹いたのかと思いつつも、今日は疲れていて食事の用意をしていないこと、何か買ってきてもらえると嬉しいと、今までならば返すことのなかった素直な言葉を返すと、驚いたことにメッセージではなく電話がかかってくる。
「はい」
『体調が悪いのか?』
「え?いえ、大丈夫。少し疲れているから食事の用意が面倒になっちゃった」
モリスンが己の気持ちをいたずらが発見された子供のような顔で伝えると、忙しかったのか、お疲れさまと労うような言葉が耳に流れ込み、驚きのあまり言葉を失ってしまう。
『……何だ、俺が疲れを労うのは変か?』
「え?い、いいえ……ガスにお疲れって言ってもらえたのが嬉しかっただけ」
でもお願い、一分でも一秒でも早く会いたい、早く家に来てと、今なら何を言っても大丈夫と判断をした彼女の口から珍しくねだるような言葉が流れ、買い物をしなくてもいいのかと問われてそんなものもうどうでもよくなったわと返すが、スマホを耳から話してそっとキスを送りあなたがいればいいとも返す。
『……もうすぐ帰る、だから待っていてくれ』
「ええ。気を付けて帰ってきてね」
いつものようにここであなたの帰りを待っていると伝えたモリスンは、通話が切れたスマホを見下ろした後、何よりも大切なもののように胸に抱え込んでソファに倒れ込む。
あっという間のような永遠のような時間の後、今着いたからドアを開けてくれとドアベルの向こうから呼びかけられ、スマホを投げ出して玄関へと駆けていった彼女は、ドアを開けて愛しい男を出迎えると同時にその首に腕を回して抱きしめ、急いでやって来たぞと笑う前とは何かが確実に変化をした恋人の顔中にキスの雨を降らせるのだった。
付き合い始めた頃のように互いを求め合い息が落ち着いた頃、モリスンの細く小さな身体を背後から抱きしめながらベッドヘッドにもたれ掛かったヒルは、どうしたと問いかけようとする彼女の細い肩に顎を乗せてひとつ息を吐く。
「どうしたの?」
「少し、副部長のことを考えた」
「……そう」
「ああ……あんな女のためにと思ったけど、あの人にとってはあの女を庇う事が譲れない事だったのかも知れないな」
「そうね」
余人には理解出来ない副部長というキャリアを捨てる行為だが、彼の中では決して譲れない何かだったのだろうと感慨深げに呟くと、モリスンの手がそっと髪を撫でてくれる。
その心地良さも彼女と付き合いだしてから得たもので、己の地位とこの心地良さを天秤に掛けたときどちらに傾くのかと思わず皮肉めいたことを考えてしまうが、どちらかを失うことなど考えられなかった。
「……何処までも強欲だな」
「え?」
「何でもない」
ただ一人の女性を失いたくないと思ったのは初めてだったために素直にそれを口に出せるはずも無く、これから先、彼の轍を踏むようなことにならないようにするだけだと己の中でひっそりと決意をし、彼は家族を取ったが俺は仕事と彼女の両方を取るとも呟くと、不思議そうな顔で見つめてくる、己にとって初めての事をいくつも経験させてくれる存在であるモリスンを抱きしめてキスをし、そのままベッドに押し倒すのだった。
疲労の滲んだ顔でソファに腰を下ろす上司であり年上の友人でもあるテイラーを見ながら彼のデスクに行儀悪く腰を下ろしてにやりと笑ったのは、今回の一連の騒動でお互い必要以上の苦労を負ってしまった慶一朗だった。
「随分疲れた顔をしてるな」
「……そういうお前はやけに元気な顔だな」
目の上の瘤が消え去ってすっきりしたかとソファの背もたれを使って振り返るテイラーに無言で肩を竦めた慶一朗は、プロフェッサーの辞職よりもオリビアの退職の方が嬉しいと小さく笑う。
「キンバリーは確かに鬱陶しい存在だったけど、功績もあったからな」
それを思えばオリビアは何の功績もないただの役立たずだと断言し、それは言えているとテイラーから同意の言葉を貰い、彼の言葉に表せない喪失を混ぜ込んだ言葉にデスクの端を握る。
「本当に退職するとはなぁ」
「プライドが高い男だからな、懲戒処分を甘んじて受けるとは思えない」
「うん、そうだよな」
彼ほどの男なら己の経歴に傷がつく前に今回の選択をするはずだと慶一朗が背後の窓の外へと顔を向けて感慨深げに呟くが、ふと脳裏に浮かんだ言葉を口に出す。
「……Fool on the hill, か」
「ん?」
「……バカを装った賢者か、それとも本当のバカか」
辞めていったキンバリーもその彼の下で必死に働いてきたヒルも、ここにいる皆全てが誰かにとってはバカだろうし他の誰かにとっては賢者なのかも知れないとやけに哲学的な事を呟くと、テイラーが一瞬で興味を覚えたようにソファの上で振り返る。
「……お前も俺もバカだってことだ」
「……その中にもちろん彼も入っているんだろうな?」
テイラーが言う彼が誰のことかを察した慶一朗がデスクの上で足を組んで目を細め、その彼がここにいれば険しい顔で名を呼ぶであろう一言を吐き捨てる。
「Scheiße.」
「……そのドイツ語は人に言ってはいけない言葉なんじゃ無いのか?」
お前の表情からも理解出来るぞと同じように目を細めたテイラーを睥睨した慶一朗だったが、俺の男を貶すからだと太い笑みを浮かべると、テイラーが対照的に限界まで目を見張る。
「お前もヒルと同じ事を言うのか」
「例え冗談でもあいつを貶すからだ」
俺はバカだからいくら貶されても気にしないが俺が好きなあいつを貶される事だけは許せないと太い笑みを一瞬で掻き消して断言すると、まさかお前がそんな風に変わるなんてなぁと、今まで慶一朗を見守り続けてきたテイラーの口から親心のような言葉が流れ出す。
「……あいつは、俺のプライドだ」
「本当ならお前が持つものをリアムに預けてどうする」
「ちょうど良いトレーニングになるんじゃないか?」
本来ならば誰しもが持つプライドだが己の恋人に丸投げしている事を告白した慶一朗は、彼は身体を鍛えるのが好きだからと笑うと、好きなのは身体を鍛えることでありメンタルを鍛えることでは無いと思うとテイラーが的確に言い当て、頑丈だから良いんだと慶一朗が笑い返すが、その時、慶一朗の私物のスマホから着信音が流れ、テイラーと二人きりという気軽さから耳に当てる。
「ハロ」
『ハロ、Mein Kaiser, 今日の帰りは遅くなりそうか?』
電話の相手は己のプライドだと宣言した恋人で、今ジャックの愚痴を聞いていたところだから大丈夫だと返すと、ソファの上できみを貶したらケイにFワードで罵られたとテイラーが叫び、スマホの向こうで空気が一瞬変化する。
『ケイさん?』
「……ジャックが疲れすぎて被害妄想がひどくなっているだけだ」
『……そういうことにしておこうか。――美味そうなオイスターが手に入った、白ワインと一緒に食べよう』
だから帰りにマーサの店でバケットや食べたいと思った惣菜を買ってきてくれと笑われ、了解と返して通話を終える。
年下の友人とその恋人の日常らしきやりとりを聞いていたテイラーは、本当にお前がそんな風に変化をするなんてなぁと先程と同じ言葉を感慨深く告げ、うるさいと返されるが友人として嬉しいことだと笑いながら立ち上がり、お前達の会話を聞いて僕もオイスターが食べたくなったから後で妻に電話をしてみようと片目を閉じる。
「好きにすればどうだ?」
俺はこの後、シティやこの周辺で最も美味いと評判のレストランよりも絶品の料理を食べさせてくれる自宅に戻り、専属シェフと一緒にその料理を楽しむのだからと何故か勝ち誇った顔で言い放った慶一朗は、テイラーの悔しそうな声を背中で受けつつじゃあまた明日と手を振り友人のオフィスを出て行く。
廊下を曲がる寸前、ネームプレートの外されたドアの前を通るが、口の中でチャオと呟いただけでそれ以上の感慨を抱くことも無く、恋人が言ったようにパン屋が閉店する前に帰らなければと鼻歌交じりにロッカールームに向かうのだった。
廊下の窓の外、すっかり夜の世界へと変化をした上空をゆったりと雲が流れ、そんな雲の行き先を白い月が見守るように光っているのだった。