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「ねえ。新谷」
「はい?」
「マジで言ってる?」
「はい」
「無理だろ!!これ!!」
紫雨は白銀の世界の真ん中で、真っ白な息を吐きながら叫んだ。
「積雪40㎝、余裕です」
新谷は防水グローブをはめた手で親指を立てると、雪用スコップを持って、ザクザクと雪の中に入っていった。
「てか敷地、どこからどこまで!?わかんねえんだけど、境界線!」
言うと、
「やだなあ。紫雨さん。見えませんか?あの棒と旗」
渡辺が笑う。
「棒ってあの?虫取り網ひっくり返したようなほっそいやつ?」
「そうです。倒さないようにしてくださいね。抜けちゃうとアウトなんで」
言いながら渡辺もザクザク雪に入っていく。
「マジか……」
「おい」
「っ!!」
篠崎が後ろから、紫雨の腰を掴んできた。
「ビビらせないでくださいよ!」
驚いて振り返ると、篠崎は紫雨の腰を見ながら首を傾げた。
「何ですか?」
「……お前、身体で痛むとこねぇの?」
言いながら視線は全身に移る。
「痛いですよ。主にパンツの中身が!」
半分以上ふざけて言ったつもりだったが、篠崎は少し考えるようにその身体を見つめると、
「いーや、お前は。用具の積み下ろしと点検やってろ」
と言いながら地盤調査車両の鍵を渡した。
「え……」
篠崎はフウと軽く息を吐くと、ネックウォーマーを鼻まで上げて、同じく雪の中に入っていった。
「……なんだよ」
その後ろ姿を見ながら呟く。
つい昨日は『こいつにも雪かきやらせろ』とか『給料発生してんだから、馬車馬のように働け』とか言ってたくせに。
「調子狂うなー。もー」
紫雨は頭を掻きながら、白い景色に溶けていきそうな3つの影を目で追った。
「……平和だ」
紫雨は腰に手を当てて下半身を軽く回した。
ほとんど痛みを感じなくなっていた身体に、血液が、力が、漲っていくのを感じる。
というのも、昨夜は「朝食はパンくらいは用意しますが、後は適当に」と言っていた新谷は、いざ夜が明けてみると、卵焼きに焼き鮭、ほうれん草のおひたしに、大根と油揚げの味噌汁と、男の二人暮らしには思えない数の品目を並べ、紫雨と篠崎を驚かせたのだった。
(この一晩のうちに、何があったんだろう)
紫雨は首を傾げながら、機材を下ろすべく、調査車両のトランクを開けた。
『それでさ、地面掘る前にまず雪掘りなの。笑っちゃうよな』
Bluetoothで繋ぎ、スピーカーから響いてくる紫雨の声は弾んでいた。
「雪かき、紫雨さんもやったんですか?」
林は車のグローブボックスからヘアワックスを取り出すと、それを手に絞り出した。
『いや、篠崎さんが休んでていいっていうから、機材の点検してた。でも機材もさー半分凍り付いててさ。ヤバかったよ』
「同じ県とは思えませんね」
林は微笑みながら両手に擦り付けると、両サイドの髪の毛を後ろに流した。
『すげえよなー。雪道もめちゃくちゃ怖くてさー。篠崎さんもアウディに限界を感じて、冬用にもう1台車買おうか迷ってるとか言っててさ』
金色のバッチをスーツの襟元に付ける。
『あ、悪い。忙しいか?』
「いえ。楽しそうで良かったな、と思って」
『馬鹿にしてるだろ』
「してませんよ。全然。ご飯はちゃんと食べてますか?」
鞄から銀縁の眼鏡を取り出し、それを装着する。
『ああ。母ちゃんみたいな新谷がいるからな。朝飯に弁当に、なんだかんだ夜ご飯まで準備してるからさ。食べないわけにいかないって言うか。この間押しかけた時は、自炊なんてほぼしないって言ってたんだけどなー』
「……そうですか。よかったですね」
『味は微妙なんだけどなー』
「それは残念。でも栄養補給だと思って食べてください。紫雨さん、だいぶ痩せたんで」
バックミラーを自分に向けて、最終チェックをする。
『わってるよ』
「二人に任せてれば安心ですね。さすが、秋山さんだ」
『…………』
電話口の紫雨は一瞬黙ってから、静かに言った。
『そっちは?どう?変わったことない?』
すっかり風変わりした自分の容姿を見て、林は笑いそうになるのを堪えた。
「何も、ないですよ」
『あいつ、展示場の周り、彷徨いたりしてねえ?』
「してませんよ。大丈夫です」
林は視線を上げて、聳え立つマンションを見上げた。
7階。
東側から3つ目。
『なんか変なことがあったら、すぐ連絡してこいよ』
「大丈夫ですって」
林は笑った。
「紫雨さんは療養期間だと思って、篠崎さんと新谷君に癒されてきてください。こちらのことは、何も気にせず」
『ああ。悪いな』
「それでは、お疲れ様でした」
林はエンジンを切ると、運転席のドアを開けた。
そしてその部屋を見あげると、携帯電話を胸ポケットにしまい、ため息をついた。
ドラックストアの駐車場には、林の隣にもう1台の車が停まっている。
「行くのか?本当に…」
男は運転席のドアを開けると、不安そうに言った。
「行きます。俺が話すので、後ろに立っているだけで結構です」
林は男を見下ろすと、再び、マンションを見上げた。
「紫雨」
お世辞にもうまいとは言えない新谷特製のコンソメスープを飲みながら、篠崎が顔を上げた。
「こっちにいるのは、2週間の予定で合ってるんだよな」
カレンダーを見ながら言う。
「あ、はい。そのつもりですけど」
言いながら紫雨も焦げたトーストを齧る。
今日が12月12日であるため、2週間後といえば、24日、ちょうどクリスマスイブの日だ。
「あ、もしかしてイブにどこかのホテルに泊まるとか?ディナーとか?」
紫雨は二人の顔を見比べながら言った。
「水臭いな!言ってくださいよ。そんなら俺、1日でも2日でも前にお暇しますから!」
新谷が篠崎を見る。
「いや」
篠崎は目を落として、黒いパンにバターを塗り始めた。
「そう言うわけじゃねえんだけど。これは、秋山さんの命令でもあるんだから、お前、自分の勝手な判断で急に帰ろうとなんてすんなよってこと」
「……はあ」
視線を落とした篠崎の代わりに新谷が気配を伺うようにこちらを見つめる。
(――なんだ?)
二人の態度に違和感を覚える。
――そう言えば。
昨日もおかしいと思ったんだ。何の時だっけ。
地盤調査の時だ。
急に優しくなった篠崎。
後は――――。
目の前のご飯を見る。
これだ。
急に甲斐甲斐しく飯を振る舞い始めた新谷。
どうして――――。
「……っ!」
紫雨は慌てて立ち上がった。
「どうした」
篠崎が目を丸くする。
「俺、あっちに残してた仕事思い出した!ちょっと電話してみるわ」
「あ、おい紫雨っ!」
携帯電話を手にし、脱衣所に入ると、紫雨はドアを閉めた。
林の電話番号を押す。
よくはわからないが、変な胸騒ぎがした。
二人のこの変な気の遣いよう、そして昨日の電話での妙に落ち着いた林の声にも違和感があった。
まるで。
――――まるで誰かがそばにいるようだった。
Trrrrrrrrrrr
Trrrrrrrrrrr
(出ろ…)
Trrrrrrrrrrrr
(出ろよ……!)
Trrrrrrrrrrrrr
Trrrrrrrrrrrrrr
『林です』
一気に体中に血液が流れたような感覚がした。
「おせえよ。電話出るの…!」
言うと、林は、
『すみません。今現場の朝礼が終わったので…』
「あ」
思わず呟いた。
今日は紫雨の顧客の上棟の日だった。
そんなことも忘れ、忙しいであろう林に電話してしまったことに罪悪感を覚える。
「わ、悪いな。朝早くから。問題なかったか不安になって」
後ろでは動き出すクレーンの音、現場の叫び声が聞こえている。
『いえ、こちらは雪かきなんかもないですし、大丈夫ですよ』
林が洒落を挟んで笑う。
「そうだな。早くそっちに戻りた……」
『ダメです!』
「…………?」
深い意味もなく発した言葉だったが、林の叫ぶような声に驚いて口を結んだ。
「………どうしたよ?」
『あ、いや。まだこちらは危険なので』
「————」
取り繕うようにいつものトーンに戻した林が言う。
(…………やっぱり。おかしい)
「そうか。わかったよ。じゃあ上棟、悪いけど頼むな」
紫雨は電話を切った。
(何か。隠してる?)