「日本人にはもともとカウンターテナー自体が少なかったんだよ。でも『もののけ姫』で歌った米良義一さんを筆頭に、藤木大地さん、岡本知高さんらが次々とデビューを飾り、その歌声の素晴らしさは国際的に認められるところとなったんだ」
カウンターテナーがいかに貴重で、珍しいかを熱弁する久次を見て、瑞野漣は頭を掻いた。
もともと声は細く、小学校のときなんかは女子よりも高かった。
やがて小学校高学年で声変わりを迎えたものの、「声が低くなった」というよりは「低い声も出るようになった」と言った方が正しく、地声としてはそこまで変わらなかった。
しかし周りの成長に合わせ、故意に「低い声を出す」ことが当たり前になっていった。
「せっかくこんな声域に生まれたんだ。テノールにしておくのは勿体ない。アルトを歌うのはどうだ?ソプラノでもいいし」
久次は先ほど歌った「BELIEVE」の楽譜を取り出す。
「ソプラノは歌によってはきついキーもあるかもしれないけど、大抵の中高合唱曲のソプラノの高音は高くても4Gまで。お前にとったらなんなく出る音だよ」
「……てかクジ先生。俺、合唱部入るなんて一言も言ってないんだけど」
キョトンとして見上げると、久次はさらにキョトンとして見下ろした。
「えっ。なんで?」
「……は?なんでって……」
「こんなにいい声してるのに?」
「いい声……?」
「やらないなんて、それこそ馬鹿だろ」
「…………」
言い切る久次に、合唱部の皆が笑う。
授業中と全然違う。
クラスのメンバーは、若くどこか頼りないこの教師のことをいつも馬鹿にしていた。
めったなことで怒らないので嘗めてもいた。
◆◆◆◆
クジ先生のクジは挫けるのクジ。暗く湿ったナメクジのクジ。
呼び始めたのは自分ではない。
でも本人に面と向かって呼んだのは、もしかしたら自分が初めてかもしれない。
いつも覇気がなく、授業をしていてもどこか上の空で魂が籠っていない。
ふとした瞬間に空を見上げて、そのまま帰ってこなくなるような教師は、いつもどこか危なげで、儚げで……。
「自殺ってあーゆー人が、ある日突然するんだろうな」
という漣の感想に教室中が湧いた。
その端正な容姿から寄生した一部の熱狂的なファンを覗けば、久次についてのおおむねの評価は「若いくせに元気もやる気もなくて、地味で暗い残念な先生」だった。
――春。
気づいたのは偶然だった。
漣は窓際の席で、だから他の生徒よりは黒板に向かって文字を書く教師の顔が見えた。
――この先生……。黒板に向いた時の顔と、振り返った顔が、違くねえか?
それはまるで何かのアニメや映画でも見ているかのようだった。
黒板に向く顔は真剣で男らしくて、それどころか何かに怒っているような憤っているような、殺気さえ感じるのに、振り返った瞬間に、何かを捨て去るように無表情になる。
見間違いではなかった。
彼はその180度の回転と共に、身に纏うオーラさえも180度変えていた。
――逆なら、わかる。
黒板に向くとき、つまりは生徒に背を向いたときに、どうせ見えないからと気を抜いたり、ため息をついたり、別なことを考えたり。
でも振り向いたときにはきちんと”教師”に戻る。
でも久次の場合は違う。
生徒を前にするとき、故意に感情や精気を抜く。
(いや、封じ込める……?)
漣はクラスメイトを見回した。
きっと今、この教師の変化に気づいたのは自分だけだ。
このクラスで、いや、この学校で、彼の本当の顔を知っているのは――――。
そう考えたら俄然興味が沸いた。
なぜこの人は生徒の前で抜くんだろう。
生徒が嫌い?授業が嫌い?学校が嫌い?
でもそれなら、
なぜ教師になったんだろう。
谷原先生の絵画教室に通うことになったと久次が現れたときには、ものすごく驚いた。
しかもあろうことか、その生徒の一人との行為を見られてしまった。
『見た?じゃねえよ』
睨みながら舌打ちをした久次の表情は、学校では見たことがなかった。
『身体売ってんじゃねえだろうなって!』
怒ってくれたことが嬉しかった。
それなのに……。
『俺はお前たちが本気で付き合ってるなら、何も言わない』
彼は釈然と言い放った。
え、待ってよ。
俺があんな豚みたいな中年と付き合ってるって本気で思ってる?
同意だなんて……。
本当に信じんのか、あんたは………。
期待した分、腹が立った。
だから挑発する言い方、表情を選んだ。
すると、
『単なる暇つぶしなら、相手は俺でもいいんだよな?』
久次はそう言った。
……なんだ、こいつも同じか。
漣は鼻で笑った。
何かと理由を付けたいだけで、結局のところ、自分を――――。
そう思っていたのに。
◆◆◆◆
(なに?この状況?)
渡された一つも読めない楽譜を見下ろしながら漣は首を傾げた。
「今からパート練習だから、ソプラノのパートリーダーについて練習しろ。ええと、杉本。悪いけど、今日一日、瑞野も混ぜてもらっていいか?ソプラノがダメだったらアルトに入れるから」
「って俺の意思は無視かよ!やだよ女子と同じなんて!」
そう言った俺の肩に、久次は細身の見た目に反して熱い手を置いた。
「安心しろ、瑞野。お前に男性パートは出ない」
「~~~~!」
睨む漣に久次はふっと笑った。
雲の切れ間から陽が射したのか、音楽室が柔らかい光に包まれた。
(この人。こんな顔して笑うこともあるんだ……)
口を開けた瑞野の頭を大きな手が覆った。
「じゃあ、パート練習。午後から合わせるから、みっちりな。昼時間になったら各自休憩。1時集合」
端的にそう言うと、久次はもう一度こちらに笑顔を見せてから、クシャクシャッと髪をかき回し、音楽室を出て行った。
「……ああ、もう…かっこよすぎる……」
女子の1人が言った。
「なんか今日、特にかっこよかったくない?」
他の女子も賛同する。
どうやら合唱部と教室では、久次の教師としての評価だけではなく、男性としての評価にも差があるらしい。
(こっちが素かよ。クジ先生……!)
でも不思議と漣には、合唱部で見せている顔もまた、黒板を睨んでいる、あの何かに対して怒っているような本来の彼の顔とは、別のように思えた。
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