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雪が降っていた。夏にもかかわらず。
美雪は両手で顔を覆った。綺麗とか、面白いとか、そういうことよりまず一番に、有害物質が含まれているのではないかと危惧したからだ。
「おーい、やっぱり酒も買ってきてくれ。あれ、もう行っちゃったか?」
網戸から室内にいる夫の声が聞こえてくる。
美雪は黙って玄関に戻り、外の景色を封じ込めるように鍵を閉めた。
「あ、良かったまだいた。なんか今日は無性に酒が飲みたくてさ」
普段全く酒を飲まない夫が、引き止めて頼むほど飲みたがるなんて。これは──
「これは雪でも降るんじゃないか?」
美雪が思うのと、夫が口にするのが同時だった。
ぞっとした。だがすぐにその恐怖を打ち消し、代わりに納得した。
そうか、夫のせいで雪が降ったのだと。
「えぇあなた、本当に雪が降ってるわよ」
美雪はいつも通りの笑顔で答えた。
「え?」
夫は冗談だと勘違いして半笑いのまま固まった後、美雪の表情から事実であることを察したようで、急いで外を見た。
それからまた、固まった。
「美雪、雪なんて降ってないぞ」
「……あら、そうなの」
激しい恐怖を抑えようとしすぎたあまり、美雪は軽い返事をしていた。
本当はそんなわけないと叫び、すぐさま窓際に張り付いて再確認したかったが、その気持ちまでも一緒に抑え込んだ。
「ごめんなさい、私の勘違いだったみたい」
美雪は逃げた。何も見なかったことにした。
「何だよそれ。疲れてるんじゃないのか」
夫は呆れたように笑い、のそりとソファから立ち上がった。
「それじゃあ俺が買ってくるよ」
「別に疲れてないわ」
「いいよ、酒も実際行ってから決めたいし」
「分かった、気をつけて」
美雪は笑顔で手を振り、そのまま部屋に留まった。
行かなくて済んだことに心底安心していた。自分は本当に疲れているのだろう、だから代わりに行かせるのが最善だ、そう自分に言い聞かせつつ、けれどどこか罪悪感を感じていた。
静寂の中で鍵が閉まる音をしっかり確認してから、夫が座っていた位置に腰掛け、何事も無かったようにテレビをつけた。
すると穏やかなはずの昼時のニュースは、大事件があったかのように騒がしかった。
「見て下さい、雪です!夏にもかかわらず雪が降っています!地球温暖化の影響でしょうか!?怖いような幻想的なような、なんだか不思議な気持ちですね〜!」
現実だった。幻覚じゃなかった。自分一人じゃなかった。
安心するはずの場面で、一気に恐怖が増す感覚がした。今度は、夫を決して一人にさせてはいけないという焦りを覚えた。
テレビも消さず、靴下のまま外に飛び出す。既に夫の姿は無い。
もう二度と帰ってこない気がして、美雪は諦めずコンビニへ走った。焦りが大きくなるにつれ、雪は粉から牡丹に変わっていった。
夫との思い出が次々と脳裏を過ぎった。雪なんかどうでもよくなるくらいに、夫のことで頭がいっぱいに埋め尽くされた。
通り慣れた狭い道で、急に視界が開けたかと思うと、真ん中に夫が倒れていた。
脳が痛かったのだろう、手は頭に添えられていた。
タイミングの良さと悪さ、両方に笑ってしまいそうになりながら、美雪は雪が溶けるようにその場に崩れ落ちた。
うっすらと、身体には既に雪が積もっていた。うっすらと、生き物から物体に変わり果てたことを感じさせるようだった。
この雪と、雪を見ないふりした自分、どちらが異常なのだろう。
取り返しのつかない状況の中、どちらとも言えない疑問を浮かべていた。
雪だ、雪だ。そう何も考えずにはしゃげる、犬のような人間でありたかったと、全てを誤魔化すように美雪は思った。