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(……今夜、会いに来て正解だったな)
千晶は冷めた瞳で、上げようとしない由樹の後頭部を睨んだ。
(案の定というか、期待を裏切らないというか、なんというか)
呆れながら、湿気を含んで右へ左へ跳ねまくる髪をガシガシと掻いた。
(どうせ、あいつだ。あの篠崎とかいう上司)
千晶は、展示場のまばゆいダウンライトの下で、由樹の上に覆いかぶさっていた背の高い男を思いだした。
顔だけ見れば整ってないとも言えないが、いかにも高そうなスーツに妙に余裕のある表情。馬鹿にしたように釣り上げた口元に、射抜くような鋭い目。
(どんぴしゃなんだよなー。この子の好み、ど真ん中…)
降り出した雨に、彼の黒くて健康的な髪の毛が濡れていく。
(冷たくないの?これ)
あえて濡れているのだろうか。それとも濡れているのがわからないほど酔っ払っているのか。
千晶はため息をつきながらバックから折り畳み傘を取り出すと、ホックを外し、開いた。
由樹はピクリとも反応せず、まだ頭を下げている。
(ん?)
やけに皺の寄ったスーツに目が留まる。
よく見ると、中のシャツも、スラックスから一部はみ出している。
(なんでこんなに乱れてんの……?)
つむじあたりを穴が開くほど睨む。
(あの男、ストレートだって言ってたくせに、早くもこの子に手を出したの?!)
腹の底から怒りが湧いてくる。
(もうこの子、女だらけの職場に転職してくれないかな!深夜の弁当工場とか!保育園とか!給食センターとか!)
ゲイ同士でくっつけばまだいいものを、彼はいつもストレートの男を好きになる。
そしてその相手も、全く由樹に興味を示さずに振ってくれればいいものを、なまじ期待させて、手を出してくる。
そして、人を人とも思わないひどい仕打ちをして捨てるか、遊びだったと笑いながら捨てるか、どちらにしてもたちが悪い捨て方で、由樹をボロボロにしていく。
きっとあの男もそうだ。そうに決まってる。
その証拠に、由樹は向こうから歩いてきたとき、悲しそうな顔をしていた。
こんなにスーツが乱れるようなことをしておきながら、由樹にあんな顔をさせるなんて……。
やっと雨が降っていることに気づいたらしい由樹が顔を上げる。
「……千晶、濡れてるよ」
今にも泣き出しそうな顔で言う。
そんな顔するくらいなら。
また傷つけられるとわかっている恋なんてしてないで……。
千晶はその情けない顔を両側からバチンと挟んだ。
傘が傍らに転がる。
頬を赤くした由樹が、雨に濡れながらこちらを見下ろす。
千晶は夜中だというのに、アパート全体に響き渡る声で叫んだ。
「なんであんたって子は学習しないの!!」
母親のように説教し出した彼女を、由樹がキョトンと口を開けて見つめている。
「同じでしょ!あいつと!!あいつらと!!なんでわかんないの!」
誰のことを言っているのか察したらしい由樹は、少しだけ挑戦的な目になって千晶を睨み返した。
「……違うよ。篠崎さんは。あいつとは、全然ーー」
言ってから、はっと口を塞いでいる。
「……やっぱり篠崎ね。あの野郎……」
千晶は、由樹の襟元を掴むと、おもむろに胸ポケットに手を入れた。
「あ、ちょっと、ああっ…!!」
由樹が身体を捩る。
「変な声を出すなっ」
くねくねした腰を叩きながらポケットをまさぐると、スマートフォンが出てきた。
「あ!ちょっと…!」
由樹に背を向けると、千晶はアパートの階段を駆け上がり始めた。
慌てて由樹も追いかけてくるが、相当酒が入っているらしく、左右へよろけ、足を引っかけ、壁にぶつかり、なかなか追いついてこない。
千晶は一段とびで階段を上がりつつ、電話帳を開いた。
篠崎マネージャー。
(あった。これだ。マネージャーだって。ふーん、えらいんだ?ムカつく!)
迷わず通話ボタンを押す。
「……千晶!」
アパートの住人に気を使ってか、小声で叫びながら追いかけてくる由樹の声が遠くなっていく。
トゥルルルルルル
トゥルルルルルル
カチャッ。
「あ、篠崎さんですか?この間お会いした、新谷君とお付き合いさせてもらってる……」
『ただいま電話に出ることが出来ません。しばらくたってから…………』
落胆と安堵のため息をつく。
と、やっと視界に入るくらいまで追いついてきた由樹が、耳にスマートフォンを当てた千晶を見て、青ざめている。
(…………)
「あ、すみません。それはそれは、お邪魔しました。じゃあごゆっくり楽しんでください」
千晶は言いながら、これ見よがしにスマートフォンを耳から外した。
それを彼に向かって差し出すと、由樹は眉間に皺を寄せたまま、それをチェックした。
「……ひどいよ、千晶」
発信履歴を見て、由樹がため息をつく。
その困ったような顔を見ると、胸が痛む。
でもここは。
心を鬼にしなければ。
この子のために……。
「文句言ってやろうと思ったけど、ちょうどお楽しみだったみたい」
由樹の顔がピクリと反応する。
「邪魔するようなことしちゃった。明日、謝っといてくれる?」
その顔が悲しそうに歪む。
由樹がこの電話のことを、上司に確かめられるような男であれば、こんなに悩んだりしない。
叶わぬ恋を、こんなに引きずったりしない。
それがわかっていながらの、残酷な嘘。
(……でもね、由樹。これが現実になる日だって、必ず来るのよ)
その目が潤んでいく。
千晶はかつて、人間が壊れるというのを目の前で見た。
バラバラに割れて、
ドロドロに崩れて、
サラサラと散っていくのを見た。
(もう、あなたのそんな姿は見たくない…!)
千晶は胸に燃える熱い感情とは裏腹に、その華奢な肩を優しく抱いた。
「部屋に入ろ。体冷えちゃった」
その囁きに由樹が小さく頷く。
二人で階段を下りていく。
「あ」
曲がったところで、由樹が足を止めた。
「下りすぎた……」
思わず千晶が吹き出す。
「自分の家でしょ。間違えないでよ」
由樹も笑う。
「だって普段上から来ることなんてないから…」
二人で笑いながら振り返ると、階段を上り直す。
(この子は私が守る。たとえ、何度、この子から振られたとしても……)
どちらからともなく、手を繋いでいた。
(私がこの子を、幸せにしてみせる…!)