眠ったと言うよりは失神したという方が似つかわしい眠りに落ちた慶一朗が目を覚ましたのは、控えているが深刻さが伝わってくるリアムの低い声が耳に入ったからだった。
特に大きくも無ければ力強くも無い、どちらかと言えば弱々しく聞こえるその声が珍しくてベッドに起き上がろうとするが、全身が痛みを訴えてしまい、深呼吸でその痛みをやり過ごす。
そんな時にも聞こえてくる声はいつものリアムと比べれば強さは無く、何やら随分と困惑している様に思え、何事だと欠伸をひとつして睡魔を追い出すが、昨日の落ち込んだ顔と教えられた腹立たしい出来事を思い出した瞬間、全身を覆っていた痛みや倦怠感が吹き飛んでしまう。
「リアム!」
結局広げる事の無かったレースのカーテンが束ねられている天蓋の柱を掴みながらベッドから降り立ち、リビングのソファで困惑気味にスマホを耳に当てているリアムの名を叫ぶと、何事だと言いたげに顔が上げられるが、ホッとしたような気配も感じ取った慶一朗が痛みを忘れた顔でリアムの前に立つ。
誰と話をしているんだとジェスチャーで問いかけ、少し待ってくれと電話相手に告げたリアムが消音にしたらしく、丸裸で昨夜の情痕が色濃く残る慶一朗の身体へと両手を伸ばして抱き寄せ、己の足に座らせてその肩に顔を寄せる。
「誰と話しているんだ?」
「……エリーのおばさん」
「エリアスの母親?」
そうだと頷く声に力は無く、昨日の教会での出来事をただただ泣きながら謝られ、もう平気だと言ってもまったく聞き入れてくれないと、慶一朗が思っていた困惑とは少し違うが困っていることに変わりは無い事を教えられて盛大な溜息を吐く。
「出来れば直接会いたいけど、おばさんに会いに行けばおじさんもいるから……」
おばさんはまだ平気だけどおじさんには会いたくないと素直に吐露する恋人の髪にキスをし、お前さえ良ければ実家に来て貰えばどうだと提案する。
「え?」
「今日か明日、お前の家に連れて行ってくれるんだろう?」
だったらその時にエリアスの母にも来て貰えば良いと提案されて想像すらしなかったことだと目を丸くしたリアムだったが、通話中だったことを思い出してスマホを耳に当て、たった今恋人が雲の上から垂らしてくれた細い蜘蛛の糸に縋るように家に来てくれないだろうかと告げると、勿論私一人で行かせて貰うと返事をされて安堵の溜息を吐く。
その様子から己の提案が受け入れられた事に気付き、もう一度ハニーブロンドの髪にキスをした慶一朗は、通話を終えたスマホを力なくソファに投げ出したリアムに気付いて苦笑し、労いの意味も込めたキスをこめかみに落とす。
「エリアスの母親はまだマシそうだな」
「……彼女はずっと俺を庇ってくれていたなぁ」
おじさんが俺をケガさせたときも泣きながら家に駆け込んできた事を後で聞いたと教えられ、そうかとだけ返した慶一朗だったが、その時になって腰や尻や彼方此方が痛みを訴えていたことを思い出し、体中が痛い、何とかしろと愛嬌のある顔を見下ろす。
「……あ、う、ん、その……」
「何だ」
何か言い訳があるのなら聞いてやる、言ってみろ、ほら言ってみろと顎を指先でなぞりながら目を細めた慶一朗は、うん、言い訳は無い、ごめんと謝られて拍子抜けしてしまうが、見下ろした顔に満足そうな笑みが浮かんでいるのを見ると、この野郎と一声吠えて耳朶を思い切り引っ張る。
笑いながら止めてくれとその手を押しとどめられるがその力も緩いもので、にやりと笑った唇がごめんと心のこもっていない謝罪をしてきたため、本心から思っているのならそれなりのキスをしろと条件を付ける。
「――ん」
その条件に返事は無かったが、そっと寄せられた唇が重なり、薄く開いたそこを押し開けるように入って来た舌に一瞬目眩を覚えそうになって目の前の逞しい身体にしがみつくように腕を回す。
口の端から唾液が流れ落ちるようなキスをした後、笑みを浮かべる顔に顔を寄せて額を重ね、久し振りで俺も餓えていたけれどお前も酷かったと笑い、シャワーを浴びたいからバスルームに連れて行けと命じ、畏まりましたと鄭重に返されてよしと息を吐く。
「なあ、ケイさん」
「何だ?」
リアムの腕の中でいつものようにバスルームに運ばれながら名を呼ばれてその顔を見れば意外なほど真剣な顔で見つめ返されていることに気付き、何だと覚えているであろう緊張をほぐすように指の背で頬を撫でる。
「……ばあちゃんと、父さん母さんに紹介したい」
もしかするとケイさんはそこまで考えて付き合っていないかも知れないが、俺はあなたとはそこまで考えているとひっそりと続けられて小さく息を吐くが、気怠い腕を持ち上げてリアムの頭を抱え込むように抱きしめ、ハニーブロンドの髪に頬を宛がう。
「――人間、初めての事は必ずある」
それを成功体験にさせられるかどうかはお前次第だと笑い、その言葉の意味を理解したリアムがバスルームでそっと慶一朗を下ろすと、目尻だけを赤らめた端正な顔を真正面から見下ろし、まだまだ先かも知れないがいつか結婚しようと囁くと、プロポーズが素っ裸でバスルームかと慶一朗の細い肩が楽しそうに揺れる。
その揺れに嘲笑が混ざっていれば赤面ものだったが、見下ろす顔にはそんな色は浮かんでおらず、揺れが収まるのをじっと見つめていると意味が分からない溜息がひとつ零れ落ちた後、白く綺麗な手で額に張り付いていた前髪を慶一朗がかき上げ、朝から見るには刺激の強すぎる視線でリアムを見上げる。
「……GGの弟はアクセサリーのデザイナーもしていると言っていたな」
シドニーに帰ったら二人揃ってGGと彼の弟に会いに行こう、そして二人に似つかわしいリングを作って貰おうかと艶然と笑いかけ、無言で顎をそっと持ち上げられて目を閉じる。
この時交わしたキスは今まで交わしたものとは同じようで確実に何かが違い、それがどちらの心を反映させたものか分からなかったが、心地良さは今まで経験したことが無く、離れがたくなった慶一朗がリアムの首に腕を回し、リアムも慶一朗の腰にしっかりと腕を回して抱きしめると、どちらも唇の色が赤く色付いても離れられないのだった。
慶一朗にいつかするとは思っていたがまさか今するとは思わなかったプロポーズをした事実に今更ながらに気恥ずかしさを覚えたリアムだったが、慶一朗がシャワーを浴びている間にしなければならないことを思い出し、気が重いながらもスマホを手に取る。
昨日は怒りや落ち込みといった精神的な浮き沈みが激しくてスマホに届いていたメッセージや着信に応じることが出来なかった事を思い出し、深呼吸をして着信数が最も多い番号を呼び出す。
その相手は当然ながらのエリアスで、コールが5回を数えて繋がると、慌てた声がリアムの名を呼んでくる。
『リアム!!』
ああ、良かった、やっと繋がった、良かったと泣きそうな声で叫ばれて思わずスマホを耳から離したリアムは、昨日返事が出来なくて悪かった、それよりも披露宴に出ることが出来なくて悪かったと謝ると、少しの沈黙の後にお前は何も悪くないよと自嘲気味に呟かれて目を伏せる。
『本当は今すぐ会いたいと思っていたんだけど、いつまでこっちにいる?』
「今日の夕方前には家に帰るつもりだ」
『そうか……』
「どうした?」
『うん。もしまだ時間があるならホテルに行ってもいいか?』
お前は良いと言ってくれるがやはり僕の気が済まないと続けるエリアスに気遣う言葉をかけると、お前は優しすぎると何故かエリアスが怒っているような声を上げ、そんなだからあの人が調子に乗るんだとも続けられて目を見張る。
「エリー……」
『もしかすると家のことで何か聞かされるかも知れないけど、絶対にお前は何も悪くないからね!』
エリアスの言葉の意味が殆ど理解出来なかったが、ただ悪くないとの言葉だけで救われた気がし、ありがとうと返すとお前は僕の大切な友人だからと少し照れたような声が笑い、その笑いに同じように笑みを浮かべてしまう。
「何時ぐらいに来る? ホテルのチェックアウトの時間もあるからロビーでも良いか?」
『もちろん! アグネスと一緒にすぐに家を出るからホテルを教えてくれ』
「分かった」
メッセージを送っておくと告げて通話を終えたリアムは、己の腿にさっきのように腰を下ろす慶一朗に気付き、その腰に両手を回して甘えるように胸に顔を寄せる。
「エリーが今からホテルに来るらしい」
「そうなのか?」
「うん。――ロビーで会ってくるからケイさんはここで待っててくれ」
別に顔を知らないわけではないのに会わせたくないと思っているのか、部屋で待っていてほしいと頼まれてしまえば断れず、慶一朗も少しゆっくりしたかったためにテレビでも見ていると告げて愛嬌のある顔を見下ろす。
「行ってこい」
「うん」
交わされる言葉はいつどこで交わしたものかも忘れてしまいそうな有り触れた言葉だったが、その言葉から力を貰ったリアムが顔を上げてもう一件電話をさせてほしいと苦笑すると、気にするなと慶一朗が笑ってリアムの足から降り立ち、その横に腰を下ろす。
深呼吸をし無意識に隣を手で探ると求めているものを理解したらしい慶一朗が手を重ねて指の間に己の指を挟んできゅっと握りしめる。
その柔らかな、だが離れないと教えてくれる繋がりがリアムに更なる力を与え、スマホを耳に当てて通話相手に挨拶をする。
「ハロ、ばあちゃん」
『リアム? リアムなのかい!?』
昨日からずっとエリアスやテレーザから連絡があってあんたには全く繋がらなかったけど一体何があったんだいと、まるで目の前にリアムがいるかのように声で詰め寄ってくる祖母、クララのそれに微苦笑し、心配を掛けて悪かったと謝罪をするとそんな事はどうでも良いがまたあの男に何かされたのかと問われ、ケンカしそうになったと昨日の出来事を掻い摘まんで説明をする。
『おお、何と言うことを……!』
まだあの男はお前を恨んでいるのかいと、嘆きと怒りが混ざった声に問われてどうだろうと苦笑すると、慶一朗がリアムの頭を片腕で抱き寄せて髪にキスをする。
「一緒にいると何をするか分からなかったから披露宴を欠席した」
『そうかいそうかい。良く堪えたねぇ」
「そのことでこれからエリーが謝りに来るって言ってるから会ってくる」
『無理をするんじゃないよ』
「うん」
電話中で退屈しているのか、リアムの髪に悪戯をするように何度もキスをしするいたずらな恋人を片手で封じるように細い腰を抱き寄せると、楽しそうな吐息が一つ零れ落ちる。
『リアム』
「ん?」
『お前はエリアスの祝いの席を壊さないように最善の方法を取った。だから胸を張って帰っておいで』
今回の事で例えあの男に文句を付けられても水をかけて追い返してやるから安心するんだよと祖母の優しくも力強い言葉に頷いた孫だったが、実はその話よりももっと重要で緊張を覚える言葉を告げる為に深呼吸をし、隣でまだ楽しそうに己の手を掴んで手遊びを始めた恋人を見つめつつそっと口を開く。
「うん――ばあちゃん、今日家に帰るけど、ケイさんと一緒に帰るから」
『え?……お前が今一緒に暮らしている人だね?』
「そう」
『分かったよ。その人と一緒に気を付けて帰っておいで』
帰ってきたらあんたの好きなプファンクーヘンを作ってあげようね。
祖母の言葉に励まされたリアムが力強く頷き慶一朗の細い肩に額を当ててうんと返すと、そろそろランチの準備に掛かるから電話を切るよと名残惜しそうに言われるが、すかさず濡れた音が聞こえてくる。
祖母のキスを耳で受け止めてそっと通話を終えたリアムはスマホを投げ出すと同時に慶一朗にタックルするように抱き着いてソファに押し倒すと、やめろグリズリーとお決まりの文句が流れ出す。
「――ケイさん、今日の夕方に家に帰ろう」
一緒に帰って家族に紹介したいと薄い腹に告げると髪を撫でられその心地良さに目を閉じる。
「……お前の祖母もお前のように優しい人だな」
「うん、そうだな……本当に、優しい人だな」
でもその反面、怒らせると怖いと笑うとそっと頭を撫でられる。
「今日の夕方か」
「そう思ってる」
「じゃあホテルを出る用意をしないといけないな」
お前の部屋とこの部屋の清算をして家に帰る準備をしようと笑う慶一朗に頷いたリアムだったが、誕生日にゲートルートで食事をしないかと提案をし、その店の名前が披露宴の会場名であることを思い出した慶一朗がそっと頷く。
「お前の料理より美味いものを食わせてくれるといいな」
慶一朗の独白に面映そうな顔になったリアムだったが、エリアスが間もなくやって来る事を思い出し、二人で部屋の片づけや慶一朗の荷物の整理を手伝い、結局宿泊することのなかったリアムの荷物置き場になってしまった部屋も同じように片付けをしようと苦笑しあうのだった。
リアムのスマホにエリアスとアグネスが到着した事を教えるメッセージが入ったのはそれから20分程経った頃で、ロビーに行くから待っていてくれと返事をしたリアムは、お前が戻ってくるのをテレビでも見ながら待っているとキスと共に送り出してくれる慶一朗を一度強く抱きしめ、すぐに戻ってくるからと部屋を出る。
リアムがいなくなった部屋は途端に静まり返って不愉快だったため、見ても楽しいかどうかも分からないテレビをつけてソファに横臥し、リアムが戻ってくるのをうたた寝の中で待つことにするのだった。
エリアスとの時間は互いの予定の為に長くは取れず、残念なことにエリアスが新婚旅行先のスペインから帰国する日よりもリアムが帰国する日の方が早く、次に会えるのはいつになるか分からない不安を抱えたままの再会になったが、エリアスと事情を聴かされていたらしいアグネスが二人揃ってリアムの手をしっかりと握り、せっかく駆けつけてくれたのに本当に悪かったと詫びてくれたことでリアムの中の蟠りが昇華される。
明日にはエリアスの母テレーザが家に来てくれる事を伝え、久しぶりにゆっくり母さんたちも交えてお茶でも飲むと笑うと、エリアスが母を頼むと頭を下げる。
その顔に浮かぶ陰りが気になったリアムだったが己の事で精一杯でその由来を聞き出すことは出来ず、後日教えられてやるせないため息一つで腹の中の納めるべき場所に収めるのだった。
そして、二人手を繋いでホテルを出ていく幼馴染とその妻を見送り大急ぎで部屋に戻ると、ソファでうたた寝をしている慶一朗の頬にキスをして眠い目を瞬かせる恋人に最高の笑みを見せるのだった。
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