昨日のあの客は何だったのだろう。
漣は音楽室のパイプ椅子に浅く腰を掛けながら小さく息を吐いた。
若林と名乗った男は昨日、本当に何もしてこなかった。
ただこの家を買うだけ買って、蒸発してしまった漣の父親のことに怒り、女でひとつで漣と楓を育ててきた母を称賛し、弟の面倒を見てきた漣に感心すると……。
それだけで本当に帰っていった。
(もしかして、客じゃなかった?)
いやそんなわけはない。谷原から紹介を受けたのだ。
(じゃあ、EDとか?)
それも違う。今までも客の中にEDはいたが、それでも漣の唇を執拗に求めたり、身体を弄り漣のモノを咥え吸い上げたりはしてきて、その欲情は常に健常者のそれよりも酷かった。
(……意味わかんねえ)
首を傾げた漣を、久次が覗き込んだ。
「どうした?瑞野」
「あ、いや……」
「そろそろ通し練習を挟むぞ」
「通し練習……?」
「そう。冒頭からラストまで全部通す練習を多く入れていくぞってこと」
「あ……はい!」
久次は慌てて頷く漣を訝し気に見つめていたが、
「久次先生―、ちょっとここの合わせ方わからなくてー」
テノールの男子生徒たちに呼ばれて行ってしまった。
何やら聞かれながら、スラックスから調子笛を取り出すと、旋律を確認している。
(本当に歌えないんだな。いや、歌わないのかも)
病気か事故か、何があったのはわからないが、以前はのびのびと出た歌声が出なくなったというのは、プロや指導者を目指していた彼にとって、どんなに落胆する出来事だっただろう。
『俺の声、先生にあげる』
自分が思い付きで久次に言った言葉が自分に跳ね返る。
テノールパートから離れ、指揮台に戻った久次を見上げた。
(俺の声、全部先生に上げるよ)
自分のことなんかいらないかもしれないけど。
(俺の声はもらってよね、先生……)
何度か“流浪の民”の通し練習を挟み、久次は譜面を睨みながら、何度も頷いた。
「よし。もういいだろう」
言うと、グランドピアノに座った中嶋を振り返った。
「中嶋、本気出して」
その言葉に漣だけではなく合唱部の生徒たちはあんぐりと口を開けた。
「え……今までのは何だったんですか?」
杉本が視線を久次と中嶋の間を往復する。
「いや、今回はピアノも伴奏じゃなくて一つの旋律だからさ。あんまり本気出してもらっちゃうと歌の悪いところが見つからないと思って、中嶋にはできるだけ単調に静かに弾いてもらってたんだ」
久次は前髪を掻き上げながら言った。
「…………」
漣は視線で中嶋を見た。
手を抜いている様子は微塵も感じらえなかった。
ちゃんと指が鍵盤の上を走り、身体は時に前かがみになり、時に反り上げて、全身で弾いているように見えたが、違っていたのか。
「じゃあ、冒頭から。……中嶋のピアノに負けるなよ」
久次が生徒たちをぐるっと見回す。
指揮棒が上がった。
曲が始まる。
「………!!」
音が違う。
ボリュームが、ではない。
音質が違う。同じ楽器を使っているはずなのに、空気の震わせ方、鼓膜への動線が、全く違う。
歌に集中しなければいけないと思うのに、瞬時に盛り上がり、瞬時に収まりピアノのテンションについていけない。
思わず中嶋を見る。
(……歌ってる……!)
唇が何かを口ずさんでいる。
彼はなんと歌いながら弾いていた。
彼がプロを目指しているというのはきっと本当なのだろう。
高校生のレベルではない。
そもそも合唱コンクールの伴奏に収まる技術ではない。
(こんなピアノと同等に歌うとか……できんの?俺)
一曲歌い終わり、すっかり肩を落とした漣の肩を、久次が叩いた。
「おいおい。どうした。お前だけ急に声でなくなったぞ?」
漣は久次を見上げた。
「え、俺だけ?なんでわかんの……」
「お前な。俺がお前の声を聴き分けられないわけないだろ!」
その言葉に胸が熱くなる。
「だって……中嶋のピアノすごい……」
言うと、隣で聞いていた杉本が吹き出した。
「そっか。瑞野君は初めてだもんね、中嶋の本気」
「…………」
瑞野は改めて譜面に何か書きこんでいる中嶋を見つめた。
(すごいな。音楽を本気で目指してる人間って。こんなにレベルが違うんだ……)
「こら」
久次の大きな両手が漣の両頬を掴む。
「お前が合わせるべきはピアノじゃなくて、指揮棒なんだよ……」
「……?」
「俺が振るう指揮棒の動きと、俺の息遣い、表情、身体全部を感じて、次は歌え」
「………」
「俺のことだけ見てろって言ってんの」
「………!」
(……くそ……人の気も知らないで……!)
そんなことを低い声で言う久次を睨む。
「よーし。もう一回だ」
休憩する暇もほとんどなく、再び久次の指揮棒が上がった。
皆腹に力を入れて、息を吸う。
「…………」
久次と目が合った。
彼は20人以上の生徒たちに指揮棒を振るいながら、その瞳は真っ直ぐ漣を見つめている。
大丈夫だ。
その唇が、漣にだけわかるように開かれる。
いつも通りにやれ。
漣は大きく頷き、喉を開いた。
「…………」
久次の跳ねる指揮棒に神経を集中する。
滑らかにかつ激しく拍を刻む腕に身体を委ねる。
久次の大きな手が、漣の細い腕を掴み、二人は砂浜を駆け出した。
そして二人が飛び乗った船は、真っ青な大海原へと消えていった。
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