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彼女がまた展示場に姿を現したのは、その1ヶ月後だった。
入院していたなんて露ほども知らなかった篠崎は、前回よりは地味な服装でやってきた彼女を見て愕然とした。
脚はびっこ引いて杖を突き、右腕にはアームスリングを装着していた彼女を、篠崎は慌てて車に乗せた。
「……どうしたんですか、それ」
焦る篠崎に、美智は諦めたように笑った。
「篠崎さんにおい帰されたあの日、偶然、夫が携帯電話忘れたからって戻ってきていて―――」
「…………」
「どこの誰と会ってたんだ?って………」
「それで、この怪我を?」
「はい。実は先週退院したばかりなんです」
「………」
篠崎はハンドルを殴りたいような衝動にかられた。
ダメだ。感情的になってしまっては。
もし自分が出ていって、夫を殴ったところで、夫はますます彼女を閉じ込め、ひどく当たる。
警察に飛び込んだところで、彼女自身が暴力を訴えなければ意味がなく、東北の両親に知られたくないと思っている今の彼女にそれができるとは思えない。
何かを諦めたような変にすっきりした横顔は、やはり佳織のそれと被って見え、篠崎はますます焦り、髪をかきむしった。
◆◆◆◆
篠崎と妹の佳織の父親は、二人が若い時に他界している。
30代というで大腸がんを発症し、膀胱、前立腺、リンパ、最後は皮膚にまで転移して、手術と抗がん剤の治療も、病とのいたちごっこには勝てず、45歳という若さで亡くなった。篠崎が20歳、佳織が18歳の時のことだった。
献身的な介護、看護に当たっていた母親は、夫が亡くなって気が抜けたのか、数年は魂が入らない毎日を過ごしていたが、数年前、九州に住む祖母が転倒し怪我を負うと、子供たちを残して、さっさと田舎に帰ってしまった。
そして祖母が95歳の大往生で亡くなると、まるでそれを待っていたかのように自分にも病が見つかり、まるで後を追うように他界した。
残された篠崎と佳織は、男女の兄妹ということもあり、互いが就職してからは、実家も売り払い、それぞれに居を構え、連絡さえ取り合っていなかった。
彼女が傷だらけで篠崎のマンションに逃げ込んでくるまでは……。
いくら聞いても相手の男の素性を教えなければ、直接会うと言っても聞かない妹に、篠崎は怒った。
しかし震える身体を自ら抱きしめながら首を横に振る彼女に、自分には理解しがたい何かがあると、彼女を家に匿いながら、独自に調べた。
なぜDVから抜け出せないのか。
まずは好きで一緒になった男であるため、相手に少なからずの愛情があること。
そしてそれは「立ち直ってさえくれれば」「本当の彼とは違う」という謝った言い訳を作り、ずるずると逃げ出せないらしい。
次に依存。
暴力への恐怖の興奮状態と優しさによる安定状態が交互に訪れることで、被害者にも依存的な感情を知らず知らずに生んでいるということだ。
そして、麻痺・無気力。
だんだんとエスカレートする暴力に、感覚が麻痺していく。
冷静に考えればすぐにでも逃げ出す状況にあるにも関わらず、辛すぎて現実を直視することが出来なくなり、「どうでもいい」と無気力となる。
篠崎のマンションに逃げ出してきた佳織も、少し前まではこの無気力状態だったという。
しかし彼女が飼っていた猫を暴力の最中に殺されたことで、奮起しやっと兄である篠崎に助けを求めることが出来たらしい。
数年ぶりにまともに言葉を交わす妹に、そして相手のことを頑なに教えようとしない大人の女性に、何と言っていいか、わからなかった。
さらに事もあろうに、彼女は逃げ出してきたくせに、ことあるごとに男の元へ戻り、また暴力を受けて数日後、マンションに舞い戻るという生活を繰り返していた。
いくら篠崎が怒鳴っても引き留めても、それは変わらなかった。
その時点でやはり、佳織はその男に依存していたのだと思う。
篠崎は彼女が帰ってくるたびに、増えていく傷に包帯を巻き、自分の不甲斐なさと、相手の男への憎しみで、涙を流すことしかできなかった。
しかし……。
その涙が佳織を変えた。
ある日、仕事から帰ると、佳織は化粧を施し、タイトなミニスカートを身に着けて、足を組んでソファに座っていた。
「どっかのキャバクラかと思った」
笑う篠崎に、佳織はふんと顎を突き出した。
「……被害届、出してきた」
言いながらテーブルに警察署の警視の名刺と、弁護士の名刺を並べた。
「…………」
ボロボロで泣いていたはずの彼女の変貌と、突然の展開に篠崎が言葉を失っていると、
「なんか。ムカついてきたから!」
と佳織は口を開いた。
「お兄ちゃんを泣かせながら包帯を巻かせている自分も、そのきっかけを作ったあの男も、ひどく、ムカついてきたの」
目に怒りを宿す佳織は、泣きながら逃げてきた彼女とは別人のようだった。
彼女を救ったのは、“その男よりも大事な存在”と、理不尽な仕打ちに対する“怒り”だった。
◇◇◇◇◇
家に招き入れた美智を、かつて佳織が足を組んでふんぞり返っていたソファに座らせる。
彼女には夫以上に大切な存在がいなかった。
だからその存在を作り、依存しあう2人の関係から外に目を向けられればと思ったのだが……。
弱った彼女の懐にもぐりこむことが容易だったとしても、次の課題の方が難しかった。
美智は、佳織のように強くない。
プライドも高くない。
そして残念ながら、賢くもない。
篠崎は沸き上がる寸前のミルクを、紅茶の茶葉を入れたポットにゆっくり流し込んだ。
手段を選んでいる時間はない。
このままでは、彼女はきっと――――。
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