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瞬間、ドクン、とセイの鼓動が今まで体感したことがないほど大きく跳ねた。
何だ、この感覚は。そして何だ、この鼻腔を一気に通り抜け、肺に達した途端に全身の毛穴を粟立たせる、キンモクセイのような心を緩やかにする香りは。
――――なんていい香りだろう。
心臓の高鳴りが止まらない。まるで静脈に直接アルコールを注がれたように、血管が甘く沸騰している。
最初はソファーに座っている男がつけている香水かと思った。だがこの芳香は人工的に作られたものなどではない。そう結論づけたのは酔いそうなほど強い香りが部屋中に充満しているのにも関わらず、神経質なヴィートが何も反応を示していなかったからだ。不可思議としか言えない状況に、セイは首を傾げる。すると、背を向けていた男が急に双肩をビクっと揺らし、弾かれるように立ち上がってこちらを振り向いた。
「あ……」
目があった瞬間、頭の中で限界まで膨らんだ風船がパァン、と割れる音が響き渡る。
そうして全てを理解した。
――――ああ、彼は僕の『運命の番』だ。
バース三種性のアルファとオメガには、番という特殊な繋がりが存在する。形としては男女の婚姻制度に似ているが、それよりももっと強固なもので、性交中にアルファがオメガの項を噛むことで二人の間に二度と解消できないパートナー関係が成立する、というもの。それを番契約というのだが、運命の番はそういった理性で繋がる間柄ではなく、自分の意思ではどうすることもできない、『本能』で惹かれあう関係だと言われている。
言葉どおり、運命で繋がることが定められた相手。
――――まさか、自分が魂の番と巡り会えるなんて。
ずっとお伽噺の一種だと思っていた。目があった瞬間に心が奪われ、恋に落ちる。自分の全てを捨ててでも相手と添い遂げたいと願うようになり、他の人間が一切目に入らなくなる。そんな非現実的なことが起こるはずないと考えていたけれど、数メートル先にいる初めて会った男の姿を捉えた途端、本能が歓喜に打ち震え、今すぐ駆け寄って抱きしめ合いたいと訴えた。
まるで誰も解けない数学の問題の答えを、途中の数式を飛ばして教えられたような、そんな気分だ。
おそらく、向こうも同じように思っているだろう。
――――この場で即座に項を噛まれたら、どれだけ幸せだろうか。
心のままに想像するも、セイは沸き立ちそうな感情を瞬時に押し止めた。
目の前にヴィートがいるからだ。
「どうしたの、セイ。急に固まっちゃって。体調でも悪くなった?」
何も言わず立ち尽くしてしまったことに、ヴィートが首を傾げて心配そうな顔を浮かべる。様子から察するに、まだ彼は二人のことに気づいていないようだ。
「いや……別に、ちょっと忘れてたことを思い出した……だけだよ」
「へぇ、セイが物忘れなんて珍しいね」
「ごめんね、最近覚えていなくちゃいけないことが多くて。それより彼が新しい事業のパートナー……でいいんだよね?」
「ああ、彼はエドアルド=マイゼッティー。マイゼッティーファミリーの若きドンで、年は二十七歳。彼も経営力に長けていて、いくつもの会社を成功させた有能な男だよ」
マイゼッティー。名前を聞いたところで、記憶から情報を素早く引き出す。
確かシチリア北東部のメッシーナに拠点を置くマイゼッティーは、数代前から裏稼業よりも企業経営に力を入れて組織を成長させた穏健派のファミリーだ。危ない仕事はしない、暴力や抗争も好まない。そんな姿勢に昔は「マフィア界の恥曝し」とも言われていたが、様々な組織が表の仕事をするようになってからは逆に注目されるようになった。
頭の中の整理が終わったところで、セイは続けてヴィートが告げた『若きドン』という言葉に意識を向ける。二十代で歴史あるファミリーのドンを名乗っているということは、おそらくヴィートと同じように先代の早すぎる死によって長の席についたのだろう。エドアルドも辛い過去を乗り越えた男の一人だ。
「エドアルド、彼がさっき話した僕の右腕のセイだ」
ヴィートに仲介される形で、二人の距離がゆっくりと近づく。
先ほどは遠目で細かくまでは見えなかったが、エドアルドは驚くほど美しい男だった。
翡翠色の涼しげな瞳に鼻筋の通った彫りの深い顔は、まさに甘いマスクという言葉がぴったりで、緩く波打った鎖骨までの長髪もよく合っている。背もモデルのようにすらりと高く、柔らかな仕立てのカジュアルスーツを無駄なく着こなしてしまっている姿を見ていると、正直、マフィアとして裏の世界に留めておくのが惜しいと思えてしまった。