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和臣は小児科病棟の入り口にいた。
「先生、今日まで本当にありがとうございました」
心から嬉しそうに笑う女性に、退院おめでとうございますと告げると、突然、左足に可愛らしい体重がくっついた。
「やだー! ボク、まだおうちに帰りたくないー!」
「やだ、瑞紀ったら何言ってるの? やっとお家に帰れるのよ? お父さんだってケーキ用意して待ってるんだから」
予想もしなかった帰らない発言に、瑞紀の母親が驚きながらおろおろする。
「ボク、とーぐーせんせーとお別れしたくない! まだここにいるー!
「この子ったら! ……先生、本当すみません。わざわざお時間取って見送りに来てくださったのに、駄々をこねちゃって……」
先生は忙しいんだから帰らなきゃいけないのと、母親が瑞紀を和臣の足から引き剥がそうとするが、瑞紀はイヤイヤと頭を振って離れようとしない。
「いえ、予定よりも長い入院になってしまったので、離れがたい気持ちになってしまったんだと思います」
友達もたくさんできたし、仕方のない話だ。
「私もずっと一緒にいた瑞紀君が帰ってしまうのは、嬉しいけど寂しいです。なので、少しだけ瑞紀君とお話させて貰っても構いませんか?」
「ええ、勿論! 瑞紀も嬉しいと思います」
「ありがとうございます」
礼を述べてから和臣はゆっくりと膝を折る。そして瑞紀と同じ目線になったところで、柔らかく頭を撫でた。
「瑞紀君、今日までよく頑張ったね」
「うん、ぼくがんばったよ!」
「先生、瑞紀君が元気になってすごく嬉しいよ」
「でも、もう会えなくなっちゃうんでしょう?」
「そうだね。今日はこれでお別れだね。でも、また会える方法もあるよ」
「ボクがまたにゅういんすればいいの?」
「うーん、それはおすすめできないな」
「じゃあ、どうすればいい?」
教えて! 教えて! と、瑞紀が目を輝かせる。
「それはね、瑞紀君が立派なお医者さんになること。そうすれば毎日でも会えるよ」
「ボクがおいしゃさんに?」
「そう。きっとたくさん勉強が必要になるけど、あれだけ大変な手術を乗り越えた瑞紀君なら大丈夫だって先生思ってるから」
「おいしゃさんかぁ……。うんわかった! じゃあボクおいしゃさんになって、とーぐーせんせーに会いにいく! だからそれまで待っててね!」
「勿論。ずっと待ってるから、今日からはお母さんの言うことをちゃんときいて、カゼを引かないよう気をつけるんだよ」
「はーい!」
頭を撫でて母親の下に戻るよう促すと、瑞紀は素直に返事をして和臣から離れた。
和臣も立ち上がり、母親に話し合いが終わったことを伝える。
「瑞紀君、これから勉強頑張るそうですよ」
「まぁ! この子、いつも遊んでばかりで勉強大嫌いなのに……先生の優しさのおかげですね。本当、瑞紀の担当が東宮先生でよかったです」
「いえ、私は医者としてできるだけのことをしたまでなので……。お母さんも今日まで看病お疲れ様でした。ご自宅でで瑞紀君とゆっくりなさってください」
「はい、ありがとうございます。じゃあ、瑞紀行こうか。先生にバイバーイってして」
「はーい! それじゃあ、せんせいまたねー! バイバーイ!」
ぶんぶんと振り切れんばかりに腕を振る瑞紀に、和臣も笑顔を浮かべて手を振る。そのまま少しずつ遠ざかっていく母子を見つめていると、急にポンと肩を叩かれた。
「お見送り、お疲れさまです」
「どうした? お前まで出てくるなんて。七尾さん親子に何か用でもあったのか?」
今なら呼び止めれば間に合うぞと言うと、西条は緩く首を振った。
「いえ、未来のライバルの敵情視察です」
「は? ライバル?」
「瑞紀君ですよ」
「なんで瑞紀君がライバルなんだ」
「え、先生分からないんですか? 瑞紀君、絶対先生に恋してますよ。あれは確実に将来医者になって戻ってくるパターンです」
「何言ってんだ? お前……北海道に行く準備に追われすぎて、頭おかしくなったか?」
「うわっ、酷いっ。恋人になって少しは優しくなってくれると思ったのに、前と全然変わらない」
「おいっ、場所っ」
和臣は慌てて周囲を見回し、人がいないことを確認する。
「言っただろう、お前との仲に後悔も恥ずかしさもないが、ここで働いているうちは黙っていないと面倒なことになるって」
小声で説明してから一睨みしてやると、西条はアッと気づいた素振りを見せて頭を下げた。
「……すみません。つい嫉妬に駆られちゃって。でもさっきの予想ですけど、俺は当たると思いますよ。だって実例がここにいますからね」
「実例?」
「前に話したでしょう? 俺が小児科医になりたかった理由。あれ、俺の主治医が優しかったからってだけじゃなく、恋をしてたからなんです」
しかも初恋らしい。
「まぁ、俺の場合は医者になりたいって気持ちばっかり先行しちゃって、気づいたら恋した先生のこと忘れてたんで成就しなかったんですけどね。でも、もしあの子が先生のこと覚えてたら、きっと二十年後に『約束どおり医者になりました!』なんて言いながら迫ってきますよ」
そうなったらどうするんです、と西条は不安な表情を浮かべる。
「アホらしい。その時の俺の年考えてみろ」
「先生、自分が看護師や患者の家族からなんて言われているか知ってます?」
「なんて言われてるんだ?」
「年齢不詳のドクターとか、随分腕のいい医学実習生って言われてるんですよ」
そんな人間はきっと六十近くなっても見た目が変わらないから、心配が尽きませんと西条は頭を抱えた。
「はぁぁぁ? バカかお前は。冗談も休み休み言え」
「冗談なんかじゃありません。っていうか、先生って意外に自己評価低すぎません? 先生は老若男女問わず結構人気あるんですよ。顏も童顔で可愛いし、何よりツンツンしてる先生が時々見せるデレが堪らないって言ってる人、たくさんいるんです」
だからもっと危機管理を持て。自分が北海道にいる間、もし別の男から迫られたらどうするのだと渋い顏を見せる。
そんな西条に何を考えているのだと呆れれば、今度は死活問題だだの、考えると夜も眠れないと嘆く始末で。
「……やっぱり付き合ってられない。そこで勝手に妄想してろ」
目を細め、冷たい視線で射殺してから背を向け歩き出す。
「……まったく」
ナースステーションに戻りながら、ため息を吐く。
何が自己評価が低い、だ。こちらからしてみれば、西条だって十分自己評価低いではないか。あの男は、自分がどれだけ魅力ある男か分かってない。
職業や収入は申し分ないうえ、顔も性格もよくて、やや泣き虫だけれども恋人を大切にする。言い寄られるのが心配だというなら、それはこちらのほうだ。それに――――
――オレにはお前だけだ。
こちらは西条しか見えていないのだから、迫られようが何をされようが、心が動くことはない。
自分にとって最初で最後の男なのだ、西条は。
――腹が立つから絶対に言ってやらないけど。
そう心に固く誓って足を進める。
だが。
「……あ……」
そうだ、今日はたしか。
和臣はハッと大切なことを思い出し、踵を返した。そのまま西条の下へと戻り、隣に並ぶ。
「西条」
「はい」
「大丈夫か?」
「…………さすが先生」
隣で淡い笑みを浮かべた西条だが、その表情はかなり固い。
「星也君の手術、今日だったな」
「ええ。今から病室に行って、ご両親と一緒にオペセンターに見送りにいくんです」
西条が星也君、と呼ぶのは先日、脳腫瘍で緩和ケアに移った子だ。が、あれから薬が効き始めたのか、奇跡といえるほどに状態がよくなったため、両親の意向で病巣切除手術に踏み切ることが決まった。
ただ、手術とはいっても百パーセント根治できるという保証はない。中を開けてみて、やはりダメだったという可能性だってある。けれど両親は星也君の「たくさん遊園地に行きたい」「小学校に行きたい」という願いを叶えるため、勇気を振り絞ったのだ。
和臣は一つ息を大きく吸って深呼吸すると、隣にある西条の背中を思い切り叩いた。
「痛っ!」
いきなり叩かれた西条は驚いた顔でこちらを見る。
「せ……先生?」
「西条、笑え」
「え?」
「今の星也君にとって、ご両親にとって、お前の笑顔が一番の安心材料だ。だから怖くても笑え」
こういう時、いつも西条は不安になる保護者の隣に寄り添いながら、「自分も同じ気持ちだ」と同調した表情を見せる。それはそれで保護者も落ち着くのだが、それよりも「不安だなんて微塵も思っていない」と、どっしりと構えていたほうがずっと安心できる。
「オレはもう、お前を甘やかさない。これからはお前が不安で立ち止まりそうになっても、背中を突き飛ばして前に進ませる。それがこれからのオレの新しい支えかただ」
「新しい……支えかた……」
二人の未来はすでに動き出している。だから関係も新しい形にしていこうと決めたのだ。
和臣が笑みを浮かべて見上げると、きょとんとしていた西条の顔がみるみる引き締まる。
「そうですね。俺が怖がってたら、気持ちが伝わっちゃいますもんね。―― ――分かりました」
星也君のために笑います。
西条はそう決意して、しっかりと顔を前に向けた。
「じゃ、行ってきます、先生」
「ああ、行ってこい」
笑顔で歩き出した西条の背中を見送り、そして和臣もまた自分を求めてる患者のもとへと歩き出す。
二人の進む先は、確実に未来へと続いていた。
END