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桑本家を出て、行きと同様、小松のステーションワゴンに乗り込もうとした由樹は、背後から首根っこを掴まれた。
振り返ると、篠崎が無表情でこちらを見下ろしている。
「小松さん。仲田さんを送ってって。俺、こいつと回るとこあるから」
「了解です」
小松が頷き、仲田が笑顔で手を振る。
由樹に対しては何も言わず、ザッザと砂利道を進むと、篠崎はさっさと運転席に乗ってしまった。
慌てて助手席に乗り込む。
本革のシートが少しひんやりとする。
滑らかなシートベルトを引き出し、留める。
篠崎が助手席シートの後ろに腕を回しながらバックで車を動かす。
(うっ)
そんな仕草にもいちいち心と身体が反応する。
(ダメだ。落ち着け。落ち着け……!)
先程、確かに篠崎は何かに気づいた顔をした。
もしかしたら何かバレたかもしれない。
昨日までだったら、由樹がゲイだなんて想像もつかなかったから、こちらの態度に何も感じなかったかもしれないが、今は違う。
もう由樹がゲイだということを知られている。
その上で目を逸らしたり、顔を赤らめたり……。
(これ。バレないはずなくない?)
正面を眺める。
と、ハンドルを握っていた左手が由樹の前に伸びてくる。
「え?」
思わず声が出る。
しかしその手はグローブボックスの隣のボタンを押すと、また戻っていってしまった。
「さっき、仲田さんを乗せたから」
篠崎が正面を向いたまま言う。
「シートヒーターつけてたんだ。男だと熱いだろ」
ボタンを改めてみると、なるほど、シートの形に赤い波線が印字されていた。
(……ダメだ)
篠崎が少し動いただけで香る、煙草とコロンと男の匂いに、嫌というほど体中が反応する。
(明日から鼻栓してこようかな)
絶望にも似た気持ちで顔を横に向け、助手席から流れる景色を眺める。
その後頭部に注がれる鋭い視線に、そのとき由樹は気が付かなかった。
「ここは?」
着いたところは、青いシートに包まれた建築現場だった。
「俺の現場」
言いながら篠崎が、チェーンをくぐる。
慌てて後に続くと、篠崎は玄関にかけてあった番号式のキーボックスを解除し、中から鍵を取り出した。
「最近の鍵って随分短いんですね」
横から覗き込んで言うと、
「これは建築途中専用の仮の鍵。引き渡しと同時に長い本物の鍵と交換になって、鍵穴にそれを刺した瞬間、この鍵は無効化する」
言いながらそれを由樹に渡す。
「持ってみろ。軽いだろ」
指先が由樹の手に触れる。
太くて、硬い。
当たり前だが、触れ慣れている千晶の手とは全然違う。
「あ、本当ですね。はは。オモチャみたいだ」
染まる顔を見られないように俯きながら鍵を返すと、篠崎は無言で見下ろしながらそれをスーツのポケットに入れた。
テープとビニールで包まれているドアを開ける。
と、一気にヒノキのいい香りが鼻孔をくすぐった。
「……わあ」
思えば、建築現場の中身を見ることなんて、初めてだ。
外壁はすでにつけられていたが、中はまだ柱や梁がむき出しで、そこここに木の粉が落ちていて、断熱材がビニールに包まれている。
「どうだ」
篠崎が由樹を見下ろす。
「なんていうか……」
形容しがたい。でも……
「“生きてる”って感じがします」
笑われるかと思ったが、篠崎は黙って由樹を見下ろしている。
「木が息をしている、というか。ボードやクロスで隠す前の柱が、梁が、生きているって感じがして。木造住宅が『呼吸をする』っていう意味を肌で感じられるっていうか。
もちろん調湿効果はあるんでしょうけどそれ以上に、守られているっていうか。支えられているっていうか、何て言うんですかね」
由樹は素直に、上司を見上げた。
「素敵っすね。木の家って!」
胸をドンと押され、むき出しの柱に押し付けられる。
顎を掴まれ、上に向けられる。
「やっと、俺の顔を見やがったな」
「………!!」
掴まれたまま固まる。
手が、熱い。
力が、強い。
目が――――。
怖い………!
顎を固定されて、もう俯くことができない。
刺さる視線でピン留めされたように、目を逸らすこともできない。
もう片方の腕が由樹の頭上の柱に押し付けられていることで
(う……!ゼロ距離……!)
照明もなく、シートに包まれたガラス窓から入る日の光でかろうじて明るい建築現場で、篠崎の眼光がだけが鋭く光る。
掴まれた顎から、篠崎の体温が伝わってくる。
自分の頭の上にある腕から、煙草とワイシャツのノリの匂いが香ってくる。
そして―――。
由樹の脹脛には、篠崎の足が触れている。
嫌でも体が熱くなり、顔が赤くなり、目が潤む。
頭を撫でられるだけで。
同じ車に乗るだけで。
ほんの少し手が触れるだけで。
嫌と言うほど体が反応するのに。
こんなに近く、温度を感じてしまったら。
(……どうしよう。俺……)
「お前…」
篠崎がじっとこちらを見下ろしたまま、口を開いた。
突然、胸と的を撃ち抜いた言葉に、由樹は固まった。
これは……。
何と答えればいいんだろう。
何と答えれば、篠崎は……。
自分を嫌わないでいてくれるんだろう。
「答えろ」
高気密・高断熱の現場が静かだからか。
それとも裸の木々が音を跳ね返しているのか。
篠崎の声がいつもより響いて聞こえる。
「おい、聞いてんのかよ」
ぐっと篠崎が顔を寄せる。
(これ以上近づかれたら、やばいって…)
無意識に手でその厚い胸板を押し返すと、柱に押し付けられていた腕が、そのまま柱ごと由樹を抱きしめるように、迫ってきた。
「逃げんな。答えろ」
逃げ腰になり後ずさろうとしたのに柱が邪魔でもつれてしまった両足の間に、篠崎のすらっと長い脚が入ってくる。
(これは、まずいっ……)
篠崎の太股が。由樹の足の付け根に当たっている。
(ダメだ。反応しちゃ……俺の家作りの夢が……)
目を瞑る。
(俺の人生が………終わるっ!)
「……馬鹿な奴だな」
篠崎の吐いたため息が頬をくすぐる。
「俺は、別に気にしてねえのに」
(……え)
由樹は目を開けた。
「お前だけだっつの。意識してんのは」
呆れたように言うと篠崎は、由樹の腰に回していた腕を解き、顎を掴んでいた手を離し、触れていた足を一歩引いた。
「いいか。俺は、お前が元ゲイだろうが、オカマだろうが、別にどうでもいいんだよ」
元ゲイ。
オカマ。
どうでもいい。
中国雑技団お馴染みのナイフ投げのように、短く鋭いナイフが、由樹の胸に刺さっていく。
「更生できて、あんな可愛い彼女まで出来て、大逆転じゃねえか」
更生。
可愛い彼女。
大逆転。
今度は頭頂部にナイフを三輪挿しのごとく突き刺され、由樹はめまいを覚えた。
「とにかく俺は、そんな取るに足らないことで、お前の熱意や夢を否定することはない」
取るに足らない。
最後にバズーカを放たれ、由樹の体は塵と散った。
「だから、お前も気にするな。心配しなくてもお前の過去のことは、誰にも言わないから」
ふっと笑うと、篠崎はドアを開けてさっさと外の光の中に溶けていってしまった。
残された由樹は、ヒノキの香りをたくさん吸い込んでから、落ちている木の粉が吹き散るほどのため息をついた。
……過去のこと。
そうだったら、どれだけ楽だっただろう。