菜月は、賢治との離婚成立後100日の間は再婚が認められない。季節はやがて晩秋を迎えようとしていた。菜月と湊との婚姻届が受理されるまで、あと62日となり、湊はソワソワと落ち着かない日々を送っている。
「ねぇ、菜月、まだかなぁ」
「あと53日よ」
「菜月、ねぇ菜月、まだかなぁ」
「あと48日、湊、毎日、毎日そんなに気にして疲れない?」
「あーもう!我慢出来ない!」
ビリビリビリ
「あっ、湊さん!カレンダーを破らないで下さい!ゴミの日が分からなくなりますから!」
「あーーもう!」
「湊、カレンダーを破いても意味ないわよ」
「あーーーもう!」
「落ち着いて、落ち着いて」
湊は、11月のカレンダーを丸々1枚破ろうとして、多摩さんに止められた。
湊は来る日も、来る日もその日を指折り数えたが、その日は一向に訪れない。我慢の限界を超えた湊は、市役所の窓口に出向いて婚姻届を貰って来た。
「菜月は失敗するから十枚もらって来た!」
「失礼ね!」
「菜月、菜月!ほら書くよ!」
「湊、気が早いわよ、提出日はまだまだ先なのよ」
「はい、極細ボールペン!」
「聞いてないわね」
勇み足の湊を『気が早い』と呆れながら、ボールペンを握る菜月は満面の笑みを浮かべた。
「間違えないでよ?」
座敷のテーブルには、茶枠の婚姻届がびっしりと並べられた。
「もう大丈夫よ!離婚届で練習したから!」
菜月は断言した。
「あーーーーー」
けれど佐々木は天井を仰ぎ、多摩さんは「そこです!そこ!」と握り拳を作って不器用な菜月を応援した。
「菜月、もう2枚目だよ?」
「本籍って、こっちの欄に書くのね」
「どうしてそこで間違えるの」
「だって」
湊の予想通り、菜月は婚姻届を書き上げるまでに3回失敗した。
「はぁーやっと、ですね」
「はぁ、菜月さま、お疲れさまでした」
「お、お待たせしました」
仕上がった婚姻届に、佐々木と多摩さんが証人として、名を連ね印鑑を捺した。湊は早々に来年のカレンダーを買ってきた。そして、婚姻届を白い封筒に入れて茶の間の神棚に祀った。
「ほら、菜月もおいで」
「な、なに」
「神さまにお参りするよ」
「どうしたの急に」
「馬鹿だなぁ、僕たちが幸せになれたのは、神さまのお陰だよ」
「そうね」
「そのご報告だよ」
菜月と湊は神棚を見上げた。
「はい、二回お辞儀!」
「こうね」
「二回、柏手!一回お辞儀!」
「こうね」
「そう!」
そこへ多摩さんが小さな盆に<米・塩・水・酒>と庭先の榊を手折って持ってきた。
「お供え物も新しくしましょうね」
「じゃあ、お掃除もしちゃおうか」
「あら、助かります」
ガラガラガラガラ
「ただいまーー、帰ったぞーーー」
「多摩さん、良い鱈があったから今夜はお鍋にしましょう」
「はいはいはい、お帰りなさいませ」
買い物から帰った郷士と ゆき は湊と菜月の姿を見て顔を綻ばせた。
「郷士さん」
「なんだ」
「ちょっと遠回りしちゃいましたけど、あの子たち良い夫婦になれますね」
「俺たちには敵わないけれどな」
「あら、もう、ふふふふ」
そんな両親の姿を見て湊と菜月は顔を赤た。
「いつまで新婚夫婦気分なんだろう」
「いい加減恥ずかしいかも」
そんな二人に向き直った多摩さんは微笑んだ。
「きっと菜月さんと湊さんもお変わりありませんよ」
「そう?」「そうかなぁ」
「多摩の保証書付きです」
カコーン
紅色の寒椿が綻び始め、庭先に吊るされていたハンギングチェアは物置へと片付けられた。菜月は縁側に置かれたロッキングチェアーに腰を掛け、雪が舞い落ちる庭を眺めながら微睡んでいた。
「菜月」
湊は色鮮やかな赤いタータンチェック柄の温かなストールを抱えて菜月に声を掛けた。長いまつ毛、ぽってりとした唇に愛おしさが溢れ出し、軽く頬に口付ける。
「菜月、冷えるよ」
その手の下には擦り切れた装丁、臙脂色の赤毛のアン。そのページの隙間から何かが顔を出している。湊は畳に膝を突くと、そっと本を手に取った。
「これって」
その一ページには真新しい三つ葉のクローバーの指輪が挟まれていた。パラパラとページを捲ると、乾燥して茶色く変色した四つ葉のクローバーの指輪が、思い出の中から鮮やかに甦った。
「この指輪」
「そうよ、懐かしいでしょ?」
菜月は、湊に微笑みかけた。
「小学生だった湊が、私にプレゼントしてくれたのよ。憶えている?」
「憶えているよ」
「ふふ」
「まだ持っていたの」
「当たり前じゃない」
すると湊は「ちょっと待っていて」と踵を返すと廊下をスタスタと戻って行ってしまった。
「な、なに」
菜月が不思議な面持ちで、ストールと本を手に、ロッキングチェアから立ち上がろうとすると、湊が慌てた様子で戻って来た。
「菜月、ちょっと早いけれどクリスマスプレゼントだよ」
「早すぎるんじゃない?」
「菜月が、そんな物を見せるからだよ」
「湊が、勝手に見たんじゃない」
菜月がぷぅと頬を膨らませると、湊がそれを両の手のひらでぎゅっと押した。
ぶっ!
「なにするのよ!もう!」
菜月は、顔を赤らめて左手を振りかざした。湊はその手首を難なく掴み、薬指に光り輝く指輪を嵌めた。
「・・・あ」
「これが、僕から菜月にあげる最後の四つ葉のクローバーだよ」
「これって」
「婚約指輪だよ」
「湊」
菜月の目頭に涙が滲んだ。
「クローバーの指輪を探すのに手間取っちゃって」
「湊」
「菜月、僕と結婚してくれてありがとう」
「まだ早いわ」
「なにが?」
「婚姻届、まだ出していないじゃない」
「そうだね」
「湊、気が早すぎ」
「14年も待ったんだ、遅いくらいだよ」
光を弾くプラチナの指輪には大きさの異なるクローバーのモチーフが並び、その葉の一枚にダイヤモンドの粒が輝いていた。
カコーン
12月の下旬、菜月に生理は訪れず簡易妊娠判定薬で試したところ陽性の二本線が表示された。菜月の胎内には湊の命が芽吹いていた。
「湊、どうしよう」
「これは父さんたちに言った方が良いよね」
「そ、そうよね」
二人は座敷に正座すると畳に指を突いて深々と頭を下げた。
「お、おまえたち」
案の定、郷士の顔は険しいものとなった。
「ごめんなさい!」「ごめんなさい!」
「おーーまーーえーーたーーーちーー」
「一線を超えました!」「ました!」
「みーーなーーとーー!」
「ごめんなさい!」
「あっ、お父さん!」
郷士はグッと拳を作ると高く振り上げ、湊の頭のてっぺんをコツンと叩いた。叩いたと言っても、インターフォンのボタンを押した程度で二人は拍子抜けをした。
「菜月、おめでとう」
郷士は咳払いをした。
「良かったわねぇ、菜月さん、身体は冷やしちゃ駄目よ」
「は、はい」
「湊、あなたお父さんになるのねぇ」
「う、うん」
「大丈夫かしら」
ゆき はため息を吐いた。
「大丈夫ですよ、多摩の保証書付きです」
「そうぉ?」
「はい、はい、はい」
多摩さんは小豆を水に浸した。
カコーン
しんしんと雪が降る静かな夜。鹿おどしの音に耳を澄ませながら湊は菜月を優しく抱きしめて布団に横になった。
「ちょっと遅いけれど、クリスマスプレゼントだね」
「そうね」
菜月の下腹を愛おしそうに撫でる湊の目尻には涙が滲んでいた。
「どうしたの」
「なんでだろう、涙が出るんだ」
「悲しいの?」
「嬉しいんだと思う」
「そうね」
菜月は湊の頬を流れる温かな涙を指ですくい上げた。
「湊が私を助けてくれたのよ」
「うん」
「湊が居なかったら私はまだあの部屋で悲しく泣いていたと思う」
「うん」
「ありがとう」
菜月の頬を温かい涙が伝った。
「どうしたの」
「ありがとう」
「うん」
「ありがとう、湊」
2人は互いの鼓動に包まれながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
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