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賢治は、四島工業株式会社社長である、実父の四島忠信と共謀し、業務上横領を繰り返していた。更に賢治は、綾野住宅株式会社労働組合費や、社員の福利厚生費を、如月倫子との不貞行為に使い込んでおり、四島工業から返金された賠償金13500,000円を以ってしても、その埋め合わせは難しかった。
「馬鹿な事を、しでかしてくれたもんだ」
郷士は、賢治の本質を見抜けなかった事を悔やみ、自身を責めた。湊は、そんな父親を励ましながら、銀行や取引先を東奔西走し、残業が深夜に及ぶ事が度々あった。
「湊、今夜も遅いの?」
「うん」
「無理しないで」
「ありがとう」
菜月は、甲斐甲斐しく湊のワークデスクにおにぎりと味噌汁を届けたが、その横顔は疲弊し、顔色も芳しくなかった。
カコーン
鰤起こしの雷鳴が、鈍色の空に響く夕暮れ時の事だった。サンルームで菜月と ゆき が、洗濯物を取り込んでいると、社屋付近が慌ただしい気配に包まれた。
「なに?」
「どうしたのかしら」
「見てくるね」
「菜月さん、足元、気を付けるのよ」
「うん、気を付ける」
菜月が玄関へ向かうと、救急車のサイレンが屋敷に向かって近付いてきた。
(な、なに?)
サイレンを止めた救急車は、屋敷の正門前に横付けされた。菜月がサンダルをつっかけ庭に出ると、ストレッチャーを抱えた救急隊員が社屋の中へと駆け込んで行った。エントランスでは佐々木が携帯電話を握り、事務の久保が呆然と立ち尽くしていた。
「久保さん!なにがあったの!?お父さんに何かあったの!?」
菜月は心臓に欠陥を抱えていた父親を心配したが、久保は無言で首を横に振った。エントランスには顔色を変えた郷士の姿があった。
(なに、どういう事!?)
その時、母屋から駆け付けた ゆき が、『ヒッ』と小さな悲鳴を上げ菜月の袖を掴んだ。救急隊員が運ぶストレッチャーに乗せられているのは真っ青な顔の湊だった。菜月は父親の元へと走った。
「お、お父さん、どうしたの!なにがあったの!?」
「そ、それが、急に」
「急に何があったの!お父さん!しっかりして!」
「それが」
救急車の中に運ばれた湊に、救急隊員が大きな声で呼び掛け、血圧や脈拍数を計測し始めた。運転席側では、受け入れ先の病院をあたっているようだった。
「綾野湊さん、聞こえますか!綾野さん!」
湊の返事が曖昧なのか、救急隊員は救急車から降りると、 ゆき に『既往症はありますか?』『飲んでいる薬はありますか?』と尋ねた。
「と、特に、大きな病気に罹った事はありません」
「お薬はなにか飲まれていますか?」
「さ、最近、鎮痛剤と胃薬を」
そのもどかしさから郷士は『早く連れて行ってくれ!早く!』と声を荒げている。菜月はその場に崩れそうになる膝を抑えながら、佐々木に問い掛けた。
「み、湊、如何したの」
「下血されました」
「なに、それ」
菜月は、社屋の中を振り返った。
「トイレに立たれてお戻りになられなかったので」
「うん」
「声をお掛けしましたら、出血なさったと」
「出血!?何処から!」
「分かりません」
菜月がトイレに駆け込むと、便器の中は真っ赤な血で溢れていた。一瞬、気が遠くなる。その場で呆然としていると、郷士に肩を叩かれた。振り返ると郷士も顔面蒼白で、指先が震えていた。
「菜月、俺たちも病院に行くぞ。おまえは如何する」
「い、行く」
「佐々木、車を出してくれ」
佐々木は郷士の車の鍵を持つと、 ゆき に『保険証は何処ですか!マイナンバーカードもあれば!』と強い口調で声を掛けた。そして手渡された湊のセカンドバッグを受け取り、全速力でガレージへと走った。
「久保さん、今日はこれで終業だ」
郷士は久保にそう言い付け、庭先にへたりこんだ多摩さんに、『戸締りと留守を頼む』と声を掛けた。
「如何して、如何して」
車の後部座席に座る ゆき は、神に祈るように膝に肘をついて握り拳を作った。その肩を抱きしめる菜月の焦点は合わず、郷士に『大丈夫だ』と声を掛けられたが何も考えられなかった。湊を乗せた救急車は、県立中央病院の救急搬送口に横付けされた。
ピーポーピーポーピーポー
ハッチバックのドアが開き、ストレッチャーが運び出された。ほんの段差の揺れでも、湊の眉間にはシワが寄り、痛みで顔をしかめた。 ゆき は現実が受け入れ難く、青ざめ、涙を流した。
「どうして、どうして湊が」
「大丈夫だ」
「どうして湊が」
「大丈夫だ」
ゆき の震えは止まらず郷士がその肩を抱いた。菜月たちが、薄暗い廊下に置かれた長椅子に座ると、<治療中>のランプが点った。
「大丈夫だ」
佐々木は救急窓口で問診票に住所氏名を記入し、菜月に湊の誕生日を確認しそのバインダーを看護師に手渡した。
「先生、息子は!息子は大丈夫なんでしょうか!」
湊はO-157などの感染症の検査を受けたが陰性だった。止血剤の注射を打たれた湊は鎮痛剤とブドウ糖のパックを点滴しながら腹を抱えレントゲン、CTスキャン、MRIと検査を受けた。その間も痛みに歪んだ顔でトイレに出たり入ったりを繰り返し、その都度、看護師が便器の中をチェックして出血量を確認した。出血が粘液に変わりようやく湊は救急病棟のベッドに寝かされた。
「腸からの出血で間違いないと思われます」
郷士は、医師に詰め寄った。
「げ、原因はなんでしょうか」
「肛門からカメラを挿入し、内視鏡検査を行う必要があります」
医師は、郷士に淡々と告げた。
「カメラ、け、検査はすぐに出来るんですか」
「出血が治り症状が安定してからでないと出来ません」
「治療は、どんな治療をするんですか!」
「一週間の絶食で治癒の方向に向かうと思われます」
「思われます?」
「はい」
医師の曖昧な言葉尻に郷士は苛立ったが、今はそれに従うしかなかった。
「湊、湊」
ゆき は鎮痛剤で朦朧とした湊の手を握り、息子の名前を呼んだ。郷士は『ゆっくり休め』と言い残し、廊下へと出て行った。
(どうして、湊が、どうして)
ベッド脇の椅子に腰掛けていた菜月はポロポロと涙を溢し、その髪を撫でた。入院の面会時間はとうに過ぎていた。3人は佐々木が運転する車で帰路に着いた。夜の大通りには白いヘッドライトと、赤いテールランプの河が流れていた。菜月は、湊にプロポーズされたあの夕暮れを思い出していた。
(湊、大丈夫だよね)
県立中央病院は綾野の屋敷から程近く、『見舞いに行くのも助かるな』と、空元気な笑い声の郷士が ゆき に話し掛けた。
「そうですね」
「大丈夫だ」
帰ると不安な面持ちの多摩さんが出迎えた。『大病ではなさそうだ』という郷士の言葉に安堵の溜め息を吐いた多摩さんは、その場に座り込んだ。
カコーン
畳に敷かれた2組の布団。腕を伸ばすとそこは冷たく、優しく微笑む面差しはなかった。菜月は、言いようのない不安と悲しさで枕を濡らした。白い雪が舞い落ちる庭に、鹿威しの寂し気な音が響いた。