挨拶を無難に済ませ、ハウジングパークのトイレのゴミ箱に無事ボクサーパンツを葬ってから駐車場に出ると、黒いアウディが目の前に横付けされた。
セダンタイプのその車は、新車で買えば、乗り上がり700万円は優に超える車だ。
「お待たせしました。お願いしま……おっとッ!」
助手席に乗り込むと、シートベルトも装着しないうちに車は動き出した。
「…………
無言のまま煙草を咥えている篠崎を盗み見る。
トイレで何回も確認して、消臭スプレーをスーツの股間にもかけてみたけど、それでもやはり不安だった。
(大丈夫だって。バレないバレない。大丈夫)
チャックの冷たい感触がモロに触れる下半身が落ち着かない。
(これ、チャックの開け閉めの時に間違っても挟まないようにしないと…)
嫌な想像をして一人鳥肌を立てていると、篠崎が煙草を咥えたまま言った。
「お前、大丈夫か」
「…………え?」
思わず上司を見上げる。
「トイレで何してきた。正直に言え」
(……これって、もしかしてバレてる?)
「あ、あの」
「そんなことで怒んねーから」
(いや、怒られると思う。展示場であんなことを……。しかも篠崎さんが嫌いな男同士で……)
「言えよ、俺にはちゃんと」
車は赤信号で停まった。篠崎がこちらを振り返る。
「そのために上司ってもんはいるんだからよ」
言いながら大きな手が由樹の頭に置かれる。
(あ………)
言ってもいいだろうか。
紫雨にあんなことをされたことを、この人に………?
「部下の体調管理も上司の仕事の一つだからよ」
「……え?」
「腹下してんだろ?消臭スプレーび匂いがする」
「……あ」
「秋山さんに慣れねえ高いもんなんてご馳走になるからだよ。くくく!愚民め」
ケラケラ笑っている。
「はは……。そうですね」
(良かった。この人に、いやこんな人に口を滑らせなくて……!)
篠崎が咥えていた煙草を灰皿に押し込んだ。
「……こんないい車に匂いがついたらもったいないですよ」
言うと、2人の間にあるドリンクホルダーを指さす。そこには、車専用のプラズマクラスターが七色に光りながら置いてあった。
「それにもう、こいつは車検だから」
「車検?あ、車検の時に室内クリーニングもしてもらうって事ですか?」
「ちげーよ。台替」
「は?台替?」
思わず車内を見回す。
「十分新しいじゃないですか!」
「まあ、まだ3年だからな」
「勿体ないですよ!」
「勿体ないも何も…」
篠崎は呆れたようにこちらを睨む。
「よし。算数の授業だ、新谷。700万円の車を全額ローン組んだとして、10年間で完済するには、月々なんぼでしょうか」
700÷10÷12=…………
「6万弱、ですか?」
「オーケー。じゃあ、700万の車を3年間乗って、400万で売る。3年間で払った額は?」
「216万円」
「36ヶ月で割ると?」
「……6万円………あれ?」
「そういうこと」
(え。なんでだ?なんで同じになるんだ?俺、騙されてる?)
もう一度計算し直す。やはり間違えていない。
「俺たちの中では、車検通すなんてナンセンスだから。常に新しくて、いい車を乗ってないと」
信号が青に変わった。
ハイブリッドのその車は、音もなく走り出した。
「でも真面目な話…」
篠崎は前方を向いたまま、首を左右に傾げてコキコキと鳴らした。
「ハウスメーカーの給料が、一般企業と比べていいことは周知の事実だから、客は見てるよ。俺たちのスーツ、革靴、腕時計、ペン、名刺入れ、鞄までな」
篠崎が掲げたものを全部振り返ってみる。何もかも通販で仕入れた安いものだ。
「その最たるものが車じゃねえかな。
自分が客だったらさ。流行に敏感で、お洒落で、なおかつ成績がいい、“間違いのない営業マン”から買いたいだろ、家くらいさ。
だから、こういうアピールも時には必要なんだよ」
一昨日、帰りがけに由樹の車を見て篠崎が言いかけたのは、このことだったのか。
しかし……
(自分が高級車に乗ってる姿なんて想像できないな)
由樹は外の景色を眺めながらため息をついた。
「だから、こんな安物の薄っぺらいスーツじゃ、契約どころか、話さえ聞いてもらえねえぞ!」
いきなりスーツの太腿らへんを掴まれる。
無防備なアレにチャックが擦れる。
「うっ!」
その鋭い感覚に思わず声を出すと、篠崎はぎょっとした顔で手を引いた。
「何だよ?」
「あ、いえ、びっくりして…」
思わず股間を両手で包んだまま由樹は笑った。
篠崎は視線を前方に戻すと、何やら考えるようにその手で顎を擦った。
「……なあ。お前さ」
「はい?」
「紫雨と何を話した?」
顔の向きを変えないまま視線だけがこちらに注がれる。
「……え?……何って、えっと別に、展示場内を案内してもらってただけですよ」
「ふーん……」
「ど、どうしましたか」
心臓が高鳴る。
(バレた?バレてないよね、今のなんかで)
「いや、そうならいいけど」
視線を前方に戻しながら、篠崎は呟くように言った。
「あいつにあんまり、近づくなよ」
「えっと……それはどういう……」
「ほい、着いたぞ」
アウディは、ほとんど車が停まっていない時庭展示場の駐車場に入っていった。
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