打合せに出た篠崎は時計の針が7時を回っても帰ってこなかった。
定時は一応6時半なのだが、誰も帰ろうとしない。それどころか時計を見上げる者さえいない。
スマートフォンが震える。
彼女からだった。
『まだ?家についちゃったよー』
そういえば、昨日の夜、覚えたてのバーニャカウダーを作ってあげたいからと、今夜の約束をしたのだった。
『ごめん、いつ帰れるかわからない』
正直に送ると、
『ぶー。わかった。作りながら待ってるね』
と返信が来た。
そうだった。こっちの問題もあった。
下半身を見つめる。
パンツは徒歩で行けるコンビニでこっそり買って装着したが、勘のするどい彼女のことだ。見覚えのないパンツを由樹が履いていたら、きっと気づいてしまう。
彼女には別に隠さずに教えてもいいのだが、散々心配をかけてきた手前言いたくない。
できれば彼女が来る前に下着を変えられたらよかったのだが……。
由樹はため息をついた。
結局、篠崎が帰ってきたのは、午後8時を回ってからだった。
「よう、お疲れ」
隣の席に鞄を下ろした篠崎は言うなり、上着を脱いだ。
コロンの香りがフワッと漂う。
(……あ、あの匂いだ)
昨日、ベッドに押し倒されたときの体温を思い出しそうになり、慌ててカタログに目を落とす。
「じゃあやるぞ」
篠崎が言いながらシャツの袖を捲る。
「……やっぱりやるんですね」
図面に目を落としていた渡辺がにやりと笑う。
「当然」
篠崎が由樹の腕を掴んで立ち上がらせる。
「え?やるって?」
由樹が篠崎と渡辺に視線を往復させるが、
「……行ってらっしゃい、新谷くん」
渡辺はそれには答えずにニヤリと笑った。
「この窓の名前は」
展示場に由樹を引きずり込むなり、篠崎が振り返った。
「え?」
「だから、窓の名前は?何回も言わせんな」
「えっと窓……?」
「……断熱三層樹脂サッシ」
「だんねつさんそ………?」
「はい、次。この穴は何?」
天井の片隅に開いた丸い穴を指さしながら篠崎が言う。
「えっと、は、排気口?」
「はずれ。給気口。じゃあエスペース売りの一つ。24時間換気システムの名前は?」
「あ、えっとガード………」
「熱交換システム ウェルネスガード92」
(………やばい)
篠崎は続けてフローリングを踏み鳴らした。
「洋風住宅セゾン5。フローリングの種類は標準で何種類?オプションで何種類?」
「…………」
「ダウンライトは坪当たり何個まで標準仕様?」
「…………」
「洗面台の幅は何種類?」
「…………」
「おい……今日一日の成果がそれか?何をやってた?」
(……はい。美味い寿司を食って、他店の初対面の先輩に無理やりシコられて抜かれました)
答えられないでいる由樹を篠崎は見下ろした。
「今わかんなかったところ、完璧に勉強し直してから帰れ」
言い終わらないうちに篠崎は事務所に向けて歩いて行ってしまった。
「…………」
由樹はスーツのポケットからスマートフォンを取り出し、
『今日は帰れないと思う。ごめん』
とメールを打ち、ため息をついた。