コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
次の日、第二音楽室に行くと、ピアノの前に生徒たちが集まっていた。
「あ、久次先生!」
二年生の女子が嬉しそうに振り返る。
「中嶋君、インテラパックスの前奏弾けるようになったらしくて!」
驚いてグランドピアノの前に座る中嶋を見ると、彼は頬を薄紅色に染めながら、照れくさそうにこちらを見つめていた。
インテラパックスの前奏は、白鍵と黒鍵が入り乱れながら1音ずつ連続的に上がるアルペジオで、3オクターブをたった一小節で引き切るという暴力的な旋律だ。
この前奏が弾けないがために合唱コンクールの選曲から外される場合も少なくない。
「聞いててね、先生!」
得意げに言う女子たちに促されて中嶋が鍵盤に指を置く。
初めからフォルテシモ。手加減のない音量が音楽室に響き渡る。
♪~~~
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪~!!
生徒達から一斉に拍手が起こる。
確かに大したものだ。
粒もそろっているし、右手と左手もぴったり合っている。
(……練習したんだろうな)
久次は少し切なくなりながら中嶋を見つめ、そしてその後、みんなの輪から外れて窓際のパイプ椅子に座り、外を眺めている瑞野を見た。
「みんな、聞いてくれ!」
迷いを吹き飛ばすように言いながら、指揮台に立った。
条件反射とも呼べる速さで、グランドピアノの周りにたむろしていた生徒たちが、パートごとに置かれたパイプ椅子に着座する。
瑞野だけがその場から動こうとせず、顔だけこちらに向けた。
「秋の高校合唱コンクールだけど」
言いながら今刷ってきたばかりの楽譜を握りしめる。
「課題曲はBELIEVE。自由曲は……」
グランドピアノから注がれる中嶋の視線が心なしか少し痛い。
「“流浪の民”で行こうと思う」
「……!?」
「え、流浪の民?」
「なんで?」
生徒達から動揺という名の空気が渦巻く。
「先生、その曲なら」
ソプラノのパートリーダー、杉本が手を上げる。
「ソロパートの難易度が高いからと、夏前に断念したじゃないですか!」
「ああ、それはそうなんだが……」
「先生が言ったんですよ?きちんと歌い上げられないと、ものすごくかっこ悪い曲だって」
アルトの女子生徒も口を尖らせる。
「うん。その通りだ」
「それに本気でやるなら、春から取り組まないと、とてもとても追いつけないって。やるとしたら来年だって!」
立ち上がったのはテノールのパートリーダーだ。
「うんうん、わかった」
言いながら久次はさすがに苦笑して、両手を翳して生徒たちを宥めた。
「正直、俺の中でもずっと悩んでいたんだよ。うちの高校の強みは声量じゃない。表現力だろ」
皆が黙る。
「合唱においては動と同じくらい、いや、時にそれ以上に静の表現力が求められる。どんなに大きな高音が響いても、抑揚がなければ、合唱としては面白くない。実は合唱で大事なのは静なんだ。その表現がうちの高校は抜群に上手い」
「………」
皆が顔を見合わせる。
「静が成立すれば、対比で動が生きる。ほら、ヘッドホンで音楽を聴くとき、いつもよりもボリュームを絞っているとさ、いざ、いつもの音量に戻した時にやけにうるさく感じるだろ?それと同じだ。大事なのは、振り幅なんだよ」
「……だから?」
杉本が少し挑戦的な声で言う。
「はっきり言って下さい、先生」
「………」
お見通しだ。
ここで取り繕った方が、頭のいい彼女たちには失礼だ。
久次は息を吸い込んだ。
「“流浪の民”を選択できなかったのは、ソプラノの音量不足のためだ」
「………!」
杉本が唇を引き締める。
「だからって人数を増やすことはできない。今現在のアルトの中にはソプラノを伸びやかに歌える人員がいない」
今度はアルトが口を結ぶ番だった。
日々一生懸命練習しているのを知っている分、耳に痛い話が続いて気の毒ではあるが、事実を事実として嚥下しなければ、彼女たちに成長はない。
「でもソプラノに、瑞野が入った」
久次はどこか蚊帳の外で、窓枠に肘をつきながらこちらの気配を窺っていた瑞野を見つめた。
「……は?俺?」
言いながら組んだ足を慌てて解いている。
「瑞野に、ソプラノのソロパートをやらせる」
「……え」
声を発したのは、ピアノの脇に立っていた中嶋だった。
CDラジカセをグランドピアノに置くと、久次は痛いほどに感じる生徒たちの視線を全身に浴びながら、再生ボタンを押した。
快活な前奏から始まる。
インテラパックスほどではないが、伴奏もそれなりに難しい曲だ。
「……聞くとさ」
口を開いたのは杉本だった。
「やっぱり、かっこいいよね……」
そうかっこいい。
静と動、強と弱さえ一小節ごとに切り替える技量があれば、ものすごくきまる曲だ。
そして今回、カウンターテナーに瑞野を起用するだけではなく、久次には秘策があった。
「このテンポ、どれくらいかわかるか?」
テンポは、1分間にどれくら拍を刻むかで測ることができる。
「中嶋。どれくらいだと思う?」
まだピアノチェアに座り、若干不貞腐れ気味の中嶋に声をかける。
「………110~120くらいですか?」
「正解。120だ。さすがだな」
傍らに置いてあったメトロノームを引き寄せる。
そしてつまみを下げて120に合わせて鳴らし始めると、CDから聞こえる歌にぴったりとテンポがあった。
「……だいぶ早いですよね」
褒められて少しばかり気分を良くしたのか、中嶋が顎に手を当てる。
「今回はそれを……」
久次はつまみをさらに下げた。
「150で行く」
「……150!?」
皆が驚く。
「ただでさえ、難しい曲なのに、なぜその上で速くするんですか?」
杉本がもはや抗議に近い高い声で言う。
これも適当な説明では許されない。
真実を言うことにする。
「カウンターテナーは他の男子パートと比べて、裏声で発声する。そのため、通常よりも酸素を大量に吸い込む必要があるから、出来るだけ短くしてあげたいんだ」
久次が言うと、杉本はますます面白くなさそうな顔で瑞野を睨んだ。
「一言もやるなんて言ってないんすけどねー」
言いながら瑞野は頭を掻きながらやっと立ち上がり、ピアノに寄ってきた。
その手に印刷した楽譜を握らせる。
「まだ試作段階。本決まりじゃない」
久次は楽譜を見つめ、眉間に皺を寄せている瑞野と、眺めながら右手でメロディーを追いかけている中嶋を交互に見た。
「今日から瑞野と中嶋は、部活終わった後に、個人レッスンだ。俺がみっちり教えてから判断する」
言うと中嶋は楽譜から顔を上げ、小刻みに頷きながら久次を見つめた。
しかし瑞野は何を考えいているのか、窓の外を見ながら喉を触ると、ふうと小さく息を吐いた。