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◆◆◆◆◆
皆を帰らせた音楽室で、久次は中嶋と共に並んだ瑞野を見下ろした。
「お前の場合は、歌がどうというよりまず発声の基礎からなんだよな」
久次は漣をグランドピアノの脇に連れてくると、立ったまま鍵盤に指を置いた。
♪ドレミファソファミレド~♪
「はい。マで」
「は?ま?」
意味も分からず顎を突き出した漣に、中嶋が隣でため息を出す。
「マママママママママ~♪」
説明するよりやった方が早いと思ったのか、中嶋が手本をみせた。
「あー、そういうことね」
漣は少し照れながらそれにならった。
半音ずつ上がっていく。
「これは音域を測るテストとは違う」
久次が低い声で言う。
「発声練習なんだから、腹から声出せ」
言いながらアイコンタクトをし、中嶋と代わる。彼は小さく頷くと、ピアノの前に座り、発声練習の5トーンスケールを続けた。
「今度はハで」
「はぁ?」
「いいこら早く」
「ハハハハハハハハハハ~♪」
久次が顔を寄せてくる。
そして大きな手を漣の腹に押し付けた。
「ちょ……!」
「声の出し方は悪くないから、腹から声出せ」
「腹からって……?」
「腹を凹ますのを意識しながら歌うんだよ」
そんなこと言われても、こんな気合を入れて歌うのなんて初めてだ。
漣は眉間に皺を寄せながら声を出した。
(……てか。手、熱い……!)
久次の大きな手は温かく、漣の臍の下あたりを覆う。
指が長くて、少し節くれだっている、大人の男の手。
(なんか、変な気分になる。これ……)
俯いてその手を見ていると、突然ぐいと顎を上げられた。
「………!?」
「お前、口小さいな……」
言いながら久次が覗き込んでくる。
「指が縦に3本入るくらい開けてみろよ」
言いながらその口に自分の指を躊躇なく突っ込んでくる。
「う………が……!」
「はい、その状態で欠伸―」
めちゃくちゃなことを言ってくる。
「欠伸の喉が一番声楽の発声に近いから。丸く大きく開いてみて」
腹には熱い手を押し付けられ、口にはつい今しがた見惚れていた指を入れられ、至近距離で喉を覗かれながら欠伸なんて……。
(んなことできるか……!)
顎が外れるような痛みに、目尻に涙を溜めると、久次は苦笑しながら指を抜いた。
「3本は無理だな、お前の場合」
「当たり前だ……!」
睨む漣を久次は楽しそうに笑った。
一通りの発声練習を終えて、漣はやけにこった首を回した。
「思った以上に成長が早いな瑞野。このままだったら、来週にはソロパートの練習に入れそうだ」
「そりゃどうも。やるとは一言も言ってませんがね」
漣が目を細めていると、久次は窓枠に寄りかかりながら微笑んだ。
「喉、痛くないか?」
夕日を浴びながらこちらを見下ろしてくる。
「痛くないです。どっちかっていうと、頭が痛い」
言いながら、なぜだかガンガンと痛む額を撫でると、久次は切れ長の目を少し見開いた。
「……ほう。頭痛がするのか?」
「ちょっとね」
手を伸ばし、漣の額の真ん中を指で押す。
「ここらへんか」
「うん、そうだよ」
漣は痛みのせいか少しぼやける視界に移る久次を見つめた。
「………驚いたな。もうヘッドボイスが出せるのか」
久次は漣を見つめた。
「ヘッドボイスって何?」
漣が首を傾げると、久次は指を漣の額につけたまま話し出した。
「ヘッドボイス。別名、頭声(とうせい)。その名の通り、頭の上から声を出すような発声方法で、声楽界の中では、“ちょんまげスピーカー”なんて呼ばれたりもするかな。
高音で裏声の中でも張りや芯を感じさせることができる、ソプラノ歌手が多用する発声法だよ」
「ちょんまげ……?」
言われてもピンとこない漣は軽く首を傾げた。
「男性で出来る奴を見たのは初めてだけど……」
言いながら久次はますます漣に顔を寄せた。
「ど、どうでもいいけど、顔近いって!」
その胸あたりを突き放すと、久次はふっと笑った。
「はは。つい……」
その言い方に先日の喉仏を触った指を思い出し、漣は思わず久次を睨んだ。
「じゃあ、俺、美術部覗いてから帰るから。ここ任せていいか?」
久次は視線をグランドピアノをクリーナーで拭いている中嶋に移した。
「あ、はい。大丈夫です」
「中嶋もテンポ150での練習、頼むな」
「……はい」
中嶋の僅かに不満の混じった低い声は気にならないらしく、久次は軽く手を上げると、音楽室を出て行った。