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通されたのはアトリエではなく、和室の客間だった。
30代くらいの若く綺麗な女性が、琉球ガラスの青く美しいコップに、氷の浮いたよく冷えている麦茶を出してくれる。
奥に引っ込んだ彼女の足音が遠ざかるのを待ってから、不躾だとは思いながらも久次は谷原に顔を寄せた。
「――――奥様ですか?」
言うと谷原はふっと弱く吹き出した。
「まさか。あんな娘ほどの若い奥さん貰ったら、死んだ女房に怒られます」
「―――あ。すみません」
久次が頭を下げながら姿勢を戻すと、谷原は笑った。
「彼女はここのアトリエの持ち主です。ご主人様が加納義孝の大ファンだったそうで。まあ亡くなられてしまったんですけど」
「そうだったんですか……」
続く不幸話になんとなく気まずくなり、久次は出してもらった麦茶を口に含んだ。
「―――あ、そうだ。彼女にも言っておかなきゃな」
「何をですか?」
「久次先生が、坪沼高校の教師だってことを、ですよ」
「そんな……。高校教師なんて大したことありませんから。ここでは生徒なので、先生は止めてください」
恐縮しながら俯くと、谷原は笑った。
「いえ、そうではなくて。実はね、彼女の息子さんが、坪沼高校に通っているんですよ」
「え、うちの高校に?」
久次は目を見開いた。
「瑞野(みずの)君って言うんですけど。わかります?今はええと。3年生かな」
「3年の瑞野……」
久次はテーブルの端を見ながら記憶を巡らせた。
「あ……」
脳裏にある生徒の顔が浮かんだ。
「瑞野漣(みずのれん)!!」
思わず呼び捨てで叫んでしまう。
「はは。そうです。漣君」
谷原は微笑んだ。
担任ではないが、3年生でひと際目立つ生徒だった。
栗毛色でカールしている頭を、地毛で癖毛だと言い張る異端児。
問題行動こそ起こさないものの、どこかつかみどころがなく、授業中でも廊下ですれ違うときでも、いつもニヤニヤ笑っている。
大柄ではなく、どちらかというと背も低くて華奢。
顔だけ見れば整っていて、目は大きく色は白くて、まるで女の子のようだった。
しかしふんぞり返った態度と、どこか大人を見下したような態度が生意気で、久次は彼があまり好きではなかった。
「その反応を見ると、漣君はあまり学校でいい印象ではないようですね」
谷原は楽しそうに笑った。
「あ、いえ。けしてそんなことは……」
フォローする言葉が出ずに、久次はもう一度麦茶を口に含んだ。
「……でも、許してあげてください。彼も早くに父親を亡くし、弟の面倒を見ながら頑張ってここまでやってきたんです」
谷原は目を細めた。
「僕は彼の一番辛かった頃を知っている。だから、どうしても他人事と思えなくて……」
「……なるほど」
久次はそうするしかなくて静かに数度頷いた。
「なんて、勝手に湿っぽくなっても彼に失礼ですね。彼は今、ああして元気に頑張って毎日高校にも通って頑張ってますから!」
谷原はふうっと息を吐くと、手元にあったクリアファイルから、テキストとパンフレットを取り出した。
それを見て、久次は慌てて背負ってきたバッグから眼鏡を取り出し耳にかけた。
「久次先生は、月曜日と木曜日の週2回。夜間コースでしたよね。とりあえず夏休みの間だけ、ということでしたがよろしかったですか?」
「あ、はい」
「夏ですと、夕方5時から6時半までとなります。材料は一式でこちらの金額で申し込みできますが、画材屋さんなどでご自身でそろえていただいても結構です」
「いや、お任せします」
「わかりました。では次の木曜日……明後日までに準備しておきます。
続いて簡単にではありますが、教室の説明をさせていただきます。この森のアトリエでは―――」
暑い部屋と、蝉の声で、谷原が話す内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。
ただ脳裏に、あの栗毛色のシルエットが浮かび上がっていた。
―――思えば、久次のことを”クジ先生”と呼び出したのも、彼だった。
春。
初めて担任と授業を受け持つ3年生。
受験生を相手にするというプレッシャーのため、久次は柄にもなく緊張していた。
「――先生!俺、源氏物語がやりたいな!」
あれは「徒然草」の朗読中だった。
突然そんな声が窓際の席から響いた。
振り返ると、光に反射した金色の髪の男子生徒が、細い腕を振りながら、こちらをニヤニヤと見つめていた。
名簿をそっと見下ろす。
彼の名前を確認すると、久次は気丈に彼に近づいた。
その机の上には古文の教科書はなく、どこで手に入れたのか古めかしい源氏物語の本が置かれていた。
「白き羅うすものの単襲ひとえがさね、二藍ふたあいの、小袿こうちきだつものないがしろに着なして、紅の腰ひき結へる際まで胸あらはに、ばうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげにつぶつぶと肥えて、そぞろかなる人の、頭つき額つきものあざやかに、まみ、口つきいと愛敬づき、はなやかなる容貌なり」
そこまでスラスラと読むと、彼はこちらを大きなめで見上げてきた。
「訳してよ。先生」
挑発に乗ってはだめだと思いながらも、ここで答えないのは古文教師として、古典文学を愚弄することになる。
久次は無表情で彼を見据え、言い放った。
「白い薄衣の単衣襲に淡い藍色の小袿のようなものを引きかけて、紅い袴の結び目のところまで着物の襟をはだけさせていたため、乳房が丸見えだった。はっきり言ってしまえば、かなり行儀は良くない。とても色白であり、ふっくらとした体型で頭の形と顔つきは美しい。目つきや口元には愛嬌があり、派手な顔といえる」
「ひょー」
他の男子から嘲笑の声が飛び交う。
「やだあ」
女子たちが、媚びるような笑い声を漏らす。
その声と反応に満足したらしい少年の頭を、久次はペシッと軽く叩いた。
「古典に興味を持つのは良いが、今は紫式部ではなく、吉田兼好だ。教科書を開きなさい」
強めに言うと、彼はフフッと笑ってこれ見よがしに机の中から「古典B」の教科書を出した。
「―――!」
思わず息を吸い込む。
その表紙に描かれた薄ピンク色のボタンの花弁、一つ一つが女性の乳房に書き換えられていた。
乳頭があちこちに向いた無数の乳房に、久次が軽く吐き気を覚えると、少年は馬鹿にしたように微笑んだ。
「久次(ひさつぐ)先生って覚えにくいね。クジ先生って呼んでもいい?」
――それが、瑞野漣だった。
一本縄ではいかない、一癖も二癖もある生徒。
久次は彼の吸い込まれそうな大きな目を見ながら、「ダメだ」と言い放った。
このクラスの担任じゃなかったことを、心から神に感謝した。