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次の日出社すると、いつも由樹より早く来ている篠崎が席にいなかった。
(煙草かな……)
800円が入った茶封筒を胸に抱きながら表を見る。
篠崎らしき人影は見当たらない。
掃除の時間の直前になっても、彼は姿を現さなかった。
「今日って篠崎さんは……」
展示場の窓ガラスを拭いている渡辺に言うと、彼は「あれー?」と言いながらあたりを見回した。
「あ、あそこじゃん」
言いながら渡辺が指を差したのは、和室だった。
見ると、珍しく上着を着た篠崎の後ろ姿があった。
頷く背中に、わずかに聞こえる低い声。
誰かと話をしているようだ。
もしかして……。
そろそろと廊下を通り、そばに寄るとーーー。
「じゃあ、そう言うことで」
聞こえてきた秋山の声に、胸を撫で下ろした。
慌てて洗面台を掃除しているふりをすると、秋山がこちらに気づいた。
「お、新谷君。おはよう!」
「あっ!おはようございます!」
いかにも今気づいたような反応をしながら、一礼すると、彼は由樹の肩をポンポンと2回叩いた。
「まあ、頑張ってねー」
「あ、はい!」
再度一礼して、顔を上げた時には、彼は、事務所の中に入ってしまっていた。
(ん?まあってなんだ?)
首を傾げていると、後ろから遅れて篠崎が歩いてきた。
「あ、あの、マネージャー、あの………」
落ち着け。
”800円が入った封筒を渡しながら、「昨日はご迷惑おかけしてすみませんでした」”だ。
家で何度もシミュレーションしてきたのに、声が震える。言葉が出ない。
必死で胸元をまさぐるが、あれがない。
(あ。封筒!やばい。デスクの上に置いてきた!)
あたふたとしている由樹に無言のままの手が伸びる。
「……あ……」
思わず目を瞑る。
とその手は由樹の肩をポンと叩いた。
(……え?)
目を開けると、篠崎はこちらをまっすぐに見ながら真顔のまま言った。
「俺からの指導は大体終わりだ。今日から展示場デビューさせる。ここからは完全にOJTだから。やりながら覚えろ」
「え、あ、はい」
「知識の基本は身に付いてるから、思い切りやれ」
そう言い放つと、篠崎は由樹の脇をすり抜け、事務所へと向かって行ってしまった。
(篠崎さんの指導が終わる?こんな唐突に?あんなに熱心にやってくれていたのに)
一昨日までそんなそぶり一度も見せなかったくせに。
(昨日のこと、触れもしなかったな)
由樹はその後ろ手に閉められたドアを見つめた。
こんなことなら、「昨日のあれはなんだ!勘弁しろよ」と笑われたほうがよかった。
「ふざけんなよ。俺の口のクリーニング代も払え!」と怒られるのでもよかった。
(本当に、なかったことにされてしまった……)
しかも今日からはもう篠崎の指導もないらしい。
展示場の2階から、渡辺がかける掃除機の音が聞こえてきても、由樹はしばらくその場所を動けなかった。