「展示場デビューって言っても、そんなに気を張らなくていいからね」
朝礼後、渡辺は由樹を展示場に呼び出すと、吹き抜けの玄関先で手を合わせた。
「展示場は舞台。営業はキャスト。思い切り演ればいいから」
「舞台と、キャスト、ですか」
「そうだよぉ。お客様にとっては、住宅展示場に入るなんて、一生のうちに数えるくらいしかない特別な時間なんだから。一回一回がステージだと思って、全力で魅せてあげてよね」
「……そんなこと、俺にできるでしょうか」
渡辺は微笑んだ。
「大丈夫。そのために篠崎さんに鍛えてもらったんでしょ!」
そうだ。忙しい篠崎に毎日遅くまで付き合ってもらって練習を重ねたんだ。
(ここで応えずに、いつ、応える!)
決意と共に唇を結んだ由樹を見て渡辺は頷いた。
「よし。じゃあ、基本ね。お客様が来る。『いらっしゃいませ』『展示場を見せてください』『かしこまりました。どうぞ、お上がりください』と、人数分のスリッパを並べる」
由樹は走り書きでメモに書き込んでいく。
「うちの展示場はこの玄関ホールで、左右に分かれるから、大抵のお客さんはここでいったん躊躇するんだよ。だから、営業が誘導してあげる。
初めはインパクトの強いLDKから。
ここでは、広さの説明もそこそこに、天井の高さ、窓の大きさの説明をしながら、家の性能の話も出来たらいいよね」
言いながら展示場を進んでいく。
「奥さんがキッチンダイニングに興味を示したら、住宅設備の説明。キッチンはちゃんと水出して、IHコンロもちゃんと電源つけて、丁寧に説明することで、奥さんは心を開くよ」
そこまで話すと、渡辺は太い人差し指を由樹に向けた。
「家づくりは絶対的に奥さんだからね、中心になるのは。奥さんのハートゲットは必須だよ!」
(家作りは絶対的に奥さん、か)
千晶の顔が浮かぶ。
(確かに、もし俺たちが家を建てるとしたら、きっと俺は千晶が横でどんどん決めていくのを横でニコニコに眺めているしかないんだろうな)
このままいけば、そんなに遠くない将来訪れるだろうその瞬間を思い浮かべると、なぜだか胸が痛んだ。
「…………」
そんな由樹を渡辺が黙って見下ろす。
(やば。顏に出てたかな……)
慌ててメモを構えて誤魔化すと、渡辺は微笑んだ。
「でも君は見た目がかわいいから、旦那さんに妬かれないにね」
「え……?あ、はい」
「そこらへん、篠崎さんはものすごく上手だから。もし新規のお客さんが来たら、その技の数々を物陰から見てみるといいよ」
「妬かれない技、ですか?」
「そうそう。俺は関係ないけど―」
渡辺はホールに戻りながら笑った。
「もしお客様がどんどん進んでしまうようなときは、一旦はついてっていいよ。無理に引き留めたりしない。
というのは、意外と多いのが、他のメーカーと契約済みなんだけど、和室の感じを見たいとか、インテリアの参考にしたいとか、そういう半分冷やかしみたいな感じも多いんだよ」
なるほど。
展示場に来る客すべてが、契約するメーカーを検討中とは限らないのか。
頷いた由樹に、渡辺が目を細める。
「でもまあ、篠崎さんだったら、他社で契約済みの客もひっくり返すけどね」
「え。ひっくり返すって?そのメーカーやめたほうがいいですよって?」
「まさか。あの人は他社批判は絶対にしない。でも自社の良いところのアピールが客の心に刺されば、お客さんの方から勝手に寝返るんだよ」
渡辺はニヤリと笑った。
「…………」
(………心に刺さる、か)
と窓の外に一組の老夫婦が歩いてきた。
「おっと。篠崎さんの打ち合わせのお客さんだ。ちょっと待ってて。呼んでくるから」
外階段をにこやかに上がってくる夫婦の姿を見ながら、渡辺が事務所に走っていく。
あんな巨体なのに、走ってもフローリングは音を立てない。
彼も展示場という“舞台”を熟知した、”キャスト”なのだ。
振り返る。
自動ドアの向こう側で外壁を指差しながら微笑んでいる老夫婦がいる。
“家作りは幸せ作り”
顔を見ればわかる。
あの老夫婦は、“幸せ”の中にいる。
そしてそれは……。
由樹の隣を、やはり足音を立てずに篠崎がすり抜ける。
「芦原様。お待ちしておりました」
低く落ち着いた声。普段は見せない丁寧な物腰。
客層によって自分を使い分けている。
老夫婦が篠崎の顔を見て微笑みながら手招きをする。
玄関に置いてあるサンダルを履き、篠崎も外にでる。
外壁の相談だろうか。3人が展示場の外側を見上げながら指をさし、頷き、微笑んでいる。
(彼らの“幸せ”は、篠崎さんが作り上げているんだ)
由樹はその笑顔を見て、熱くなった胸の前で拳を握った。
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